男に”なる”という言葉がある。生まれながらにして授かる性別とは別に、男には勝ち取らねばならぬものがある。年盛りの頃は、肉体的に女を知ることで、男になると言われた。だが、もっと大きな意味として、立派な精神を築き上げ、一人前の人間になることが、男になるということである。
どんな容姿端麗な若者も、陽に焼けたかっこいい爺ちゃんにはかなわない。彼らは男のなかの男である。田に力と書いて男である。田を力強く耕す、骨太で頑丈そうな百姓の姿が、眼に浮かんでくる。山の男、海の男ともいう。荒々しい自然や困難に立ち向かい、男は強く、逞しくなる。
性差がなくなる今日で、消えていくのは男である。色白の男がもてはやされ、ファッションは中性化し、脱毛する者までいるらしい。父親の威厳はなくなり、優しさ一辺倒となり、背中で語る親子の絆は、遠い物語の記憶となりつつある。
男が男でなくなれば、男の価値は何であろう。無論、女が子を孕む手段である。だが、子を孕んでしまえば、女にとって用済みだと言われても仕方がない。女は子を産み母となる。子にとって母との絆は、生涯特別なものであるが、男となりえない父親から、子は何を学ぶだろう。今日、5人に1人が引きこもりと言われるが、私には父親が男足りえないことを発端としているように思える。天へ天へと引き上げられる力がなく、ちょっとした挫折で、地へ沼へと沈んでいく。湿っぽい母性は、蔓延しすぎてカビが生える。おれたちは、渇いた風に晒されながら、天に向かう存在であることを忘れてはならないのだ。
2024.9.18
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