米が尽きようとしているが、どこに行っても米がない。パンやうどんで腹は満たせるが、腹が満たされることと、精神に蓄えられることは別である。私が玄米を好むのは、飢えをしのげることに限らず、心までもが生き生きと力強くなるからである。千年以上も日本の土地に根づき、日本人の腹を満たしつづけてきた米は、食における日本人の精神的支柱と言っていい。私は玄米を食っていると、天と繋がる感覚をおぼえる。キリストは、人はパンのみに生くるにあらずと言った。だが玄米は、現世を肯定しながら、永遠を抱きしめさせてくれる。米はわれわれにとっての数少ない霊性食品だと信じるのである。
蓄えが尽きたのは己の不覚だ。普段であれば、もう少し蓄えはあるのだが、米好きの私は9月の新米を買うつもりで、ぎりぎりの調整をしていたのだ。いちばん美味い米を食ってやろうなんて思わなければ、こんなはずにはならなかったのである。こたびの米騒動もどきに際して、車の渋滞と似ていると思った。渋滞は、皆が心にゆとりをもって車間距離を開けていれば、ほとんど起こらない。割り込まれたくないと急いたり、車間距離を詰めていないと落ち着かなくなるのだから、結果的に自分たちが苦しい目にあう。米がなくなるのは悲しいが、いい教訓になったのではなかろうか。こたびの米騒動は、所詮茶番である。有事の際は、ほんとうに物がなくなるかもしれない。食い物がなくて死んでも、誰にも文句は言えない。すべては自己責任。己の不覚だ。それを肝に銘じておこう。
2024.8.26
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