感動とは力によって奏でられる神の演奏。われわれは神の壮大な演奏のなかを生きている。[796/1000]

ドドドーンという凄まじい地響きとともに、アカマツの大木が倒れる。切株のあたりから放たれる松脂の甘い香りが、暖かい風に乗って森中を満たしているのが何とも心地よかった。斧で刈り取ったアカマツの梢を、切株の裂けめに刺して合掌する。これは古く木こりが行った、木霊を鎮めるための慣習である。私は伐木した際は必ずこれを行い、木材をたいせつに使うことを誓う。加えて、ひと仕事を無事に終えられたことの感謝の念を森の精霊に捧げる。

 

エネルギーについて色々考えるところがある。大木が地面にたおれる瞬間は、なんとも迫力がある。目の前でクジラが飛び跳ねて、巨大な水飛沫をあげながら再び海へと潜っていくのを目の当たりにしたような、それに似た感動があると思う。感性が動くと書いて”感動”という。感性が動くのには、色々と理由があろうが、第一に、相手のエネルギーが大きいほど、感動は起きやすいと言える。広大な空や海をみて感動することもあるし、何千人の大合唱の渦にいて、思わず涙することもある。感性は弦楽器のようであり、余韻は弦の余震をいう。感動とはそれによって奏でられる、壮大な神の演奏だ。

 

だが、感動は感動でも、苦しく悲しいものもある。街のあちこちが空襲の爆発で燃えたときや、津波が街に押し寄せて、車や家を次々と飲み込んでいく様子は、言葉にならない恐怖を抱いたと想像する。私はそのどちらも体験していないので、想像で語ることしかできないが、こうした苦しく、悲しいエネルギーは、歪な波状をしているのではなかろうか。心を歪ませ、顔を歪ませ、悲しい気持ちにさせるものである。反対に、われわれが心から嬉しく、喜ばしい気持ちになるときは、雄雌や凹凸がちょうどぴたりと合うような、調和に向かう性質のものではなかろうか。

 

今日、私が言葉にしたいのは、すべての物質がエネルギーを放つということである。既に言い尽くされている言葉であるが、もう少しだけ踏み入ってみたい。物質がエネルギーを放つと言えるのは、われわれが物質をみたときに、快不快のいずれかを感じるからである。道を歩いていても、たいせつに手入れされている古民家を見るのは気持ちがいいし、人に放棄された窓ガラスの割れた空き家を見るのは心が荒むようである。こうしたわれわれの心の感じ方を見ても、それぞれの物質がエネルギーの大小と、特有の波形を持し、彼らの放つエネルギーに感化されていると言える。

 

革靴がその人間の足型に馴染んでいくように、われわれの心もまた、周囲の波形に馴染んでいくのだと思う。暗く汚い部屋にずっといれば、誰だって心は荒んでいく。反対に、掃除が行き届いた部屋にいれば、心は自ずと正しい状態になっていく。慣習の読書にしたところで、古く正しいものに日頃から触れていれば、心は自ずと力強くなっていく。

先日、縁あって、森を自分たちで開拓し家を手掛けた、お医者さんご夫婦の家にお邪魔した。人の家にお邪魔して感動することがあるのは、つくられた家具の一つひとつや、汗水流して手入れされた庭など、彼らが日頃からたいせつに注いだエネルギーが、いたるところに保存されているからだ。これもエネルギー保存の法則の一種と言えよう。

 

感動とは力によって奏でられる神の美しい演奏だ。われわれが環境に育てられるのは、そこに注がれた強大なエネルギーに感化されるからであるし、社会とは複数の環境によって形成された和音だと言える。そして規模を宇宙にまで大きくしていけば、われわれは神の壮大な演奏のなかを生きていると言えないか。悲しみや苦しみを乗り越え、ただしい心持ちであれることを強く願って。

 

2024.8.24

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