食事が人間をつくるなら、日本人の魂を醸成するのは米ではなかろうか。[793/1000]

食事が人間をつくるというのなら、日本人の魂を醸成するのは米ではなかろうか。外国から帰国した人間が口を揃えて「日本のお茶漬けがいちばん美味い」という様を、三島由紀夫は”お茶漬けナショナリズム”と皮肉った。私は基本、一日に一食しか食わないが、一か月に玄米を5キロ食べてしまうくらい米が好きである。私にとっての玄米は、家づくりにおける基礎であり、脊椎動物における背骨である。白米も嫌いではないが、玄米を知る私にとっては、なんだか骨抜きにされてしまったようで、「米を食べた」という感じにならないくらい物足りなくなってしまった。

 

数年前、日本全国を車で旅していたとき、各地のスーパーに寄って、土地柄の米を買うのが楽しみだった。”コシヒカリ”や、”秋田こまち”は、全国的にも有名でどこでも容易く手に入るが、地方でしか手に入らない銘柄もある。たとえば、青森周辺では”つがるロマン”や”まっしぐら”を食べられる。このほかにも、”銀河のしずく”、”だて正夢”、”つや姫”など、日本人に食べられている品種は300近くあるらしい。

 

私は色んな米を買っては、圧力鍋で炊いて、いちばん美味い米を追い求めつづけた。だが、美味いとか何か。もっちりしているとか、粒が大きいとか、こしがあるとか違いはある。だがこれは所詮、好みの問題であった。簡潔に言ってしまえば、どれもそれなりに美味く、逆に不味いときとは、水の量が多かったり、火力が弱かったりと、調理側の手際が原因であった。

 

だがついに、美味いと言える米に巡り合った。青森で自給自足をしている家族を訪れたときに、お土産としていただいた米だった。この家族は、畑づくりをしながら身内で米も作っていた。これは後から聞いた話だが、なんでも稲を刈り取ったあと、刈り取った稲を逆さにして天日干しにするらしい。こうすると、稲が最後の生命エネルギーを種におくろうとするから、米にエネルギーが凝縮されていくのだとか。手間がかかるので、大体は機械乾燥ですませてしまう。スーパーには天日干しの米はまずでない。

 

いただいた米は、”まっしぐら”であったが、スーパーで買った”まっしぐら”とは完全に別物だった。美味い米とは、粒の大きさとかコシとか、そういう物質的な次元を越えた、米の持する生命エネルギーの大きさを言うのだ。われわれが美味いと感じるのは、筋肉や血液、全身の細胞に、食物のエネルギーが流れ込んでくるからである。よく働いて、腹が減ったときには、どんなものも美味く感じるのは、身体がエネルギーを吸収する準備が整っているからである。

 

つい米の話が長くなってしまった。米の話をしようと思ったのは、南海トラフが騒がれて”令和の米騒動”なんて言葉が出てくるくらい、米が店棚から消えてしまった。米がなくとも、食い物に溢れる時代であるが、最後に頼れるのは米しかないということを、多くの人間が無意識に感じているということだろう。

私に一つ夢ができた。いつの日か自分の田んぼを持って、米作りをしてみようと思う。それはまだ先の話。まずは家づくりと、猟師になること。

 

2024.8.21

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