恋はみな背が低くなり、忍ぶことが少なければ少ないほど恋愛はイメージの広がりを失い、障害を乗り越える勇気を失い、社会の道徳を変革する革命的情熱を失い、その内容する象徴的意味を失い、また同時に獲得の喜びを失い、獲得できぬことの悲しみを失い、人間の感情の広い振幅を失い、対象の美化を失い、対象をも無限に低めてしまった。恋は相対的なものであるから、相手の背丈が低まれば、こちらの背丈も低まる。かくて東京の町の隅々には、ピグミーたちの恋愛が氾濫している。
三島由紀夫「葉隠入門」
恋愛は男女間において展開される恋の一形態に過ぎない。恋とはもっと大きなもの、自己と宇宙間を迸る崇高なエネルギーの総称である。日本人にとっては、胸奥に忍ばれる炎が恋だった。胸に忍ばれた炎はメラメラと燃え、崇高に身を焼き滅ぼすこともあった。エネルギーは凝縮されるほど、精神は様々な事柄を経験する。障害を乗り越える勇気、社会を変革しようとする情熱、人間の感情の広い振幅……、「葉隠」が著された当時、女色よりも男色のほうが高尚で精神的であるとみなされていたのには、そういう理由がある。
友情もまた恋の一形態となりうるのだと知った。恋愛の背丈は相対的であるというが、友情に関しても同じことが言えないだろうか。友が高みを目指すなら、己も負けじと高く在ろうとする。思えば友情の始まりも、せめぎ合う自尊心のなかで、戦い、倒し倒され、共闘し、勝ち取り、相手を認めた瞬間に初めて訪れるものではなかったか。私にとっての友情とはそういうものである。馴合うだけの友情、背丈の低い友情ではなく、自尊心をかけて戦うなかで、互いの人間的成長を促す、戦友的存在であった。
森に隠遁するのには様々な理由があったが、私にとってはこれがいちばん大きなものだった。だから毎晩、必ず友の夢をみた。人間的に未熟な己を鍛え上げ、奴らのド肝をつぶしてやりながら、どでかい猪の肉を食わせてやるためだ。俺はその日まで、ひたすら孤独を忍ぶ。
2024.8.18
コメントを残す