合理的に考えれば死は損であり、生は得であるから、だれも喜んで死へおもむくものはいない。
(略)
近代ヒューマニズムといえども、他人の死でなくて、自分の死を賭けるときには、英雄的な力を持つでもあろうが、そのいちばん堕落した形態は、自分個人の「死にたくない」という動物的な反応と、それによって利を得ようとする利得の心とを、他人の死への同情にことよせて、おおい隠すために使われる時である。それを常朝は「すくたるる」と呼んでいる。
三島由紀夫「葉隠入門」
命を大事にするのは当然のこと。国のはじまりから、先祖代々産み継がれ、親から授かった命は、言うまでもなく、誰にとってもかけがえのないものである。命が大事であることを知っているから、皆、いい人生をおくろうと必死になる。悩み、苦しみ、葛藤し、真理に焦がれ、魂を切望する。だが、”いい人生”というものが、我が身をたいせつなものに捧げることだと言うのなら、命を大事にするためには、かえって命を擲たなければならないということでもある。武士道というは死ぬことと見つけたり、で有名な葉隠であるが、以上の意味でこれは生の哲学でもある。
死にたくないという動物的な反応を抱えるのは、現代人であれば、なおさら当然の感覚である。日常的に死に直面する場面などまず起こらないから、武士道の証明のしようもない。それゆえ、才知弁舌によって己の堕落を覆い隠す”勘定人”もたしかに存在する。だが、今日の自分の行動を顧みれば、己が生に転んだか死に転んだかは、自分がいちばんよく知っている。武士道の証明ができない時代だからこそ、客観的な事実によって己を反省する。己が口にした言葉のひとつひとつや、己が実際に行動したことがそれにあたる。
この千日の投稿をはじめて間もない頃、元総理大臣が殉職した。あれから2年以上経つわけだけれど、在職中の世間からの攻撃の数々を思えば、死んでから彼を悪くいうものはほとんどいなくなり、称賛の声も見聞きするようになった。人間の評価とは感情的である。自らの死をかけることは、もっとも損をすることであり、志のために損をした人間を貶めようとは思わないのが、武士道の血が流れる日本人の国民性なのかもしれない。
肉体がつづくかぎり、魂の証明は、永遠の課題である。だから、魂を証明した偉大な人物と書物を通して語るのだ。すべては、われわれに与えられた、このかけがえのない命を、立派に生き切るために。たったそれだけのためにがんばるのである。
2024.8.14
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