俺たちはちっぽけなものだけを抱えて生きられるほどせこくはできていない[783/1000]

己が真に欲するものをほんとうに分かっているのか。とりもちに捕まったスズメのように、時代の幻想に絡めとられていないとどうして言えよう。後生大事に自分を抱え、まるで小さな子供のように、あの手この手でエゴイズムを砂上に転がしている。

考えてもみたまえ。1年前、君はいまと同じ問答をしていた。2年前も同じである。3年前とは少し形が変わったようで、よくよく目を凝らしてみれば、やはり内実は変わらない。己が真に欲するものは砂場になど存在しない。ただ、時代のとりもちから抜け出せず、身を疲弊させているだけだ。

 

我が座右書であるトーマスマン「魔の山」で、ショーシャ婦人という人物はこう語る。「自分を大事にするよりは、自分を傷つけ、苦しめるのが、ずっと道徳的だと思われる」と。

この言い方には、語弊がある。あえて自分を傷つけ、自分を苦しめる必要はない。それはかえって自己固執的、自虐的である。それでも、自分を大事にするよりは道徳的だと言うのだから、自分を抱えることの放つ腐臭が、それだけ彼女の気に障るのだろう。つまり、自分大事にすることは道徳にはなりえないし、むしろそれを敬遠する感性を持つことが、エゴイズムの砂場から抜け出す力となりうる。

 

自分が自分を守らずとも、自然に生かされ死んでいく。自分で自分を大事にするほど、かえって自分を殺してしまうことがある。つまり、俺たちはちっぽけなものだけを抱えて生きられるほど、せこくはできていないということだ。それこそ己が欲するものだろう。

 

2024.8.11

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