己が真に欲するものをほんとうに分かっているのか。とりもちに捕まったスズメのように、時代の幻想に絡めとられていないとどうして言えよう。後生大事に自分を抱え、まるで小さな子供のように、あの手この手でエゴイズムを砂上に転がしている。
考えてもみたまえ。1年前、君はいまと同じ問答をしていた。2年前も同じである。3年前とは少し形が変わったようで、よくよく目を凝らしてみれば、やはり内実は変わらない。己が真に欲するものは砂場になど存在しない。ただ、時代のとりもちから抜け出せず、身を疲弊させているだけだ。
我が座右書であるトーマスマン「魔の山」で、ショーシャ婦人という人物はこう語る。「自分を大事にするよりは、自分を傷つけ、苦しめるのが、ずっと道徳的だと思われる」と。
この言い方には、語弊がある。あえて自分を傷つけ、自分を苦しめる必要はない。それはかえって自己固執的、自虐的である。それでも、自分を大事にするよりは道徳的だと言うのだから、自分を抱えることの放つ腐臭が、それだけ彼女の気に障るのだろう。つまり、自分大事にすることは道徳にはなりえないし、むしろそれを敬遠する感性を持つことが、エゴイズムの砂場から抜け出す力となりうる。
自分が自分を守らずとも、自然に生かされ死んでいく。自分で自分を大事にするほど、かえって自分を殺してしまうことがある。つまり、俺たちはちっぽけなものだけを抱えて生きられるほど、せこくはできていないということだ。それこそ己が欲するものだろう。
2024.8.11
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