俗塵から放たれる清らかな光芒に、人の世も悪くないと思える[763/1000]

われわれが間接侵略に対処するのは、武器によってではない。われわれの魂によってです。魂がなければ、どんな武器を持とうが、も抜けのカラだ。スイスの民兵制度のように、市民が一定の期間訓練を受けて、いつでも立ち上れる用意をする―そういう制度をつくれという声が、国民の間から起こってくるようでなければだめです。

三島由紀夫「若きサムライのために」

魂は右と左を問題としない。生と死を分け隔てもしない。肉体あれば右往左往もする。故郷をさがして迷子にもなる。なんともかわいい人の子じゃないか。風に誘われ街を離れる。人のいない砂漠に堕ちる。疲れ果て、セミの鳴き声一つしない、寂寥な岩辺に腰を下ろすと、己を問い、空を見上げる。

こんなもの戯言だと認める。だが、生物の進化を思えば、なぜ人間の背は天に直立しているか。サルもチンパンも背は丸い。牛や馬は立つことを知らぬ。動物にも心はある。だが、雄々しさに最も打ちひしがれたのは、人間だったのではないか。人間だけが胸を叩いて空仰ぐ。美しい朝焼けに涙を流す。形態と進化は、心の強さと願望を顕現したものにちがいない。そんな清らかな妄想に憑りつかれる。

生に長く浸り入れば、祖国の理想を語りながら、机の下で、安全と金を握りしめるようになる。最近「魂の証明」という言葉が胸を掠める。生きている人間に、己の魂を証明することは可能だろうか。死んだ人間はけっして裏切らない。生きている人間だけが裏切る。この身を後生大事に抱えて、現世の利得に走り、損を嫌い、死すべきところで死ななかったとき、裏切りは生じ、清らかな心は傷ついていく。

誰にしたってそうだ。死ぬそのときまで、魂は証明できない。だが、実際に魂を証明した人間、切腹にて世を去った三島由紀夫を思い出すと、俗塵から放たれる清らかな光芒に、人の世も悪くないと思えるのである。

 

2024.7.21

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