金の話はどうでもいい。心の喜憂もどうでもいい。[761/1000]

私は生きるのに殆どお金がかからない。月に1万もあれば十分な生活をおくれる。一日一食で腹は満たされるので、食費は大してかからない。食事の内容にしても、茶碗一杯の玄米と、適当な野菜、たまに肉を食べれば十分満足できる。最近は、畑で働き始めたので野菜がもらえる。浮いたお金は調味料の足しになった。森には電気もガスもない。日用にもほとんど金はかからない。洗濯洗剤や高いシャンプー、歯磨き粉の代わりに、重曹をつかう。最近は暑くなってきたので、重曹を汲んできた湧水に混ぜて飲む。塩分もとれるし、身体はますます潤う。湧水以上に最高の飲み物はないと思っているので、お茶も飲料水も買う必要がない。たまに、湧水を沸かしてコーヒーを淹れる。風呂はないが、川で水を浴びる。水を絞ったタオルで身体を拭けば、意外と清潔感は保たれる。ほんとうに金がかからないので、適当に外食もする。高級な店には行けないが、安くて多くて美味い、近所の中華屋で、油淋鶏定食を食べる。強いていうなら、嗜好品に金がかかる。酒やタバコは吸わないが、チョコや煎餅など、菓子類を買うと出費がかさむ。

 

あまりにも前置きが長くなった。断じて、金のかからない生活をおくることが目的ではない。金をかけないことが目的になると、気づかないうちに生活は痩せ細っていく。心まで貧相にケチになっていく。そうなれば、一体何のための人生か。私の関心は、いつも精神に立ち返る。精神を鍛えるため、修養のため、生活は正される必要がある。私にとっては、それが森の生活であった。娯楽と飽食、物質に満たされ、堕落していく生命を、救い出した結果、森にたどり着いたのだった。

 

最近、畑で仕事をはじめた。毎日、数千円だが金が入る。金が入るので風呂に行ける。風呂に行けるので元気になる。元気になるので生活が耕される。金は経済の血液という。生活に血が流れれば、生活の血色がよくなる。だが風呂に入りながら、こんなことを思う。心には喜憂がある。そして、たしかに今、俺は元気である。だが、心が悲観に浸っていたときも、俺は俺だった。心の喜憂とは別に、魂は常に現世を直進している。直進こそ、俺たちの本質であり、存在価値のすべてだろう。ええ、価値のすべてだとはっきり言おう。金の話などほんとうはどうでもいい。心の喜憂も実はどうでもいい。魂が直進さえしていれば、生命は愛し、愛される。ああ、これ以上は何も言うまい。

 

2024.7.19

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