たいていの人達は、晩年に及んでおのが生涯をふりかえってみた場合、自分は自分の全生涯を全くゆきあたりばったりに生きてきてしまったのだという風に感ずるようになるであろう。そうして、自分があんなにも無造作に味わいもせず通りすごしたものこそ、実は自分の生命だったのであり、それこそ自分がそれを待ち望んで生きてきた当のものにほかならなかったことを知って、怪しみ訝ることであろう。
ショーペンハウアー「自殺について」
来る日も来る日も、過ぎ去っていく今日という日は、生の母胎から産み落とされた宝物であった。己の理想に遠く及ばない、糞みたく落ちぶれた日々や、大事なものが絶対的に欠けていると感じる嘆かわしい日々までも、それ自身が不足と充足を備えており、未完でありながら完成されていた。心を蝕む不足感は今日の味わいを台無しにする。望んだ果実が手に乗った途端、たちまち腐り果てたとて、それを味わい尽くす前に幻滅し、勝手に失望しているのは自分自身ではないか。何をしても救われないようで、同時に救われたのだ。風に消えていく今日、決して戻らぬ今日を、どうかお前の力で救ってやってくれ。
2024.6.15
コメントを残す