すべては仕合せな人生だったと言える。[715/1000]

「神の像は」と、ミカエルが答えた。「人間が自分の奔放な欲望に仕えようとして自らを卑しめ、その仕えたものの像を自らの像とした時に(主としてこのような不埒な悪徳がイーヴの罪を誘発したのだ)、人間を見棄ててしまった。」

ミルトン「失楽園」

狡猾なエゴイズムによって、神の像はそっくりな自我像に取って代わられる。愛国心のもと立ち上がる義士たちも、その蓋を開けてみれば己の欲望の発露だったなんてことも少なくない。戦後まもなく、満たしきれない死の衝動のためにデモに参加した学生が大半であった。己のうちに純なる像を掲げるには相応の魂が必要だ。ゆえにキリストは神格化された。像のために磔となり、己の命を賭したというその一点によって救世主となった。どんな人間も生きてるうちは分からない。だが己の命を賭したとき、彼は初めて英雄だったと言える。だから終わりよければすべてよしだ。散々な人生を送っていても、最期に純なるもののために死ねたなら、すべては仕合せな人生だったと言える。

 

2024.6.3

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