「もし自分の仮に享けた人間の肉体でそこに到達できなくても、どうしてそこへ到達できない筈があろうか」
三島由紀夫,「美しい星」
1000日投稿の1000日という数字に意味はなく、これはあくまで到達できない憧れに近づくための道標にすぎない。あの空に浮かぶ白い雲の上には何があるかと想像するのと同じで、絶対に届かないであろう憧れに少しでも近づきたくて、かろうじてぼんやり見えるところに目標を立てたのだ。
身も蓋もないことをいえば、1000という数字を踏んでも、無駄であることはわかっている。たどりついたその日は、達成感と充実感の嵐に包まれ、信じられないほどに現実離れした幸せの絶頂を味わう。しかし、1週間もたてば、興奮は冷めて世界を冷静にみつめられるようになり、良かった点や悪かった点などを客観的に分析するようになる。そして、さらに1週間もたてば、ほとぼりは完全に冷め、もといた世界とちっとも変わらないことに気づく。雲はずっと高く、月には手がとどかない。
過去の実績に浸り、歩むことをやめた人間は、ここで虚無にさいなまれる。虚無は、歩みをやめたときに天から断ち切られるようにして生じるものだ。私は燃え尽きやすい人間なので、何度もここで苦しみを味わった。そこにたどり着こうとする一心で、死に物狂いでやってきたのに、天からみれば、ほんの数ミリ動いたアリに等しいのだ。自分が一所懸命であったとしても、現実はちっとも動いた感触がないのだ。この世界に感じる、”嫌な重たさ”を虚無のなかにみつけるのである。
自殺者の4割は高齢者という。約40年間懸命に働きつづけた歩みが急にとまれば、その反動でどれだけ大きな虚無にさいなまれるか想像もできない。働くことは、社会を経由して天に通ずることであるから、労働を失うことは、天から断ち切られることを意味するのだ。信仰のない現代では、それは完全な孤立となる。
憧れに向かうことをやめたときに虚無が訪れるのなら、虚無を克服する唯一は、憧れに歩みつづけることしかない。神を信じた人間は、迫害されても殺されても、神を信じたまま死ぬことを選んだ。1000日終わっても、また1000日。その1000日が終わっても、また1000日。これが死ぬまで、一生つづいていくのだ。
厳しいなんて言っちゃいけない。先にもかいたとおり、昔の人間は死ぬことを迫られても、それを為してきたのだ。差し当たり、今はそれが強いられることはない。つい厳しいなんて口に出したくなるのだから、昔の人間の魂に触れて、死ぬまで憧れに向かいつづける力を養いつづけるのだ。
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