大切な人の死は、自分の死よりも怖い。
— とむ(原付テント生活) (@tomtombread) July 11, 2019
ふと今朝、テントで目覚めたら、「ああ、両親もいずれ死ぬんだ」って思った。
分かってはいたけれど、縁起が良くないから、こうして言葉にすることも、考えることも、ずっと避けてきた。
いつかは分からないけれど、人はみんな死ぬ。
家族も、友達も、パートナーも、仕事場の人もみんな例外なく。
そんなこと考えたくない。
けれど、大切な人の「死」とも向き合うからこそ、
大切な人の「生」も大事にできるのだろう。
果たして自分はどこまで、大切な人を大切にできているだろうか。
今朝、両親の死を考えてたら、「悔いは残したくない」と思った。
死なれた後に、悔いが残るって、きっとすごく酷だ。
自分の人生のタイムラインの中に、大切な人の「死」が入るとき、「大切な人」は「大切にできる人」に変わる。
— とむ(原付テント生活) (@tomtombread) July 11, 2019
自分の人生のタイムラインの中に、大切な人の「死」が入るとき、
「大切な人」は「大切にできる人」に変わるのだと思う。
自分の「死」って結構考える。
「どんな風に死にたい」とか「死ぬまでにこれを成し遂げたい」とか「何歳くらいに死にたい」とか、思考の節々に、自分の死は存在する。
けれど、他人の死ってあまり考えない。
大きな怪我をするとか、病を患って入院するとか、そんなことがない限り、人は明日も当たり前のように生きるって思う。
けれど、自分の死と同じように、他人(大切な人)の死とも向き合ったほうが、自分の生とも向き合える気がする。
人は人との関係の中に生きているから。
1 大切な人を大切にするということ
自分の幸せを考えるとき、
大切な人の幸せを無視することはできない。
「自分を大切にしなさい」という言葉がある。
これは、「利己的に生きろ」という意味ではなく、
「自分も、自分の大切な人も、大切にしなさい」という意味だ。
自分だけやりたいように生きても、大切な人が笑っていなければ、私たちは心から笑うことはできない。
同じように、大切な人が絶望に泣いてたら、仕事が上手くいってても悲しくなる。
すごく当たり前のことだけれど、人は一人では幸せにはなれないようになっている。
一人で生きている(幸せになっている)つもりでも、実はそこには他者が介在していたりする。
これは「愛」が、誰かとの関係の中にしか生まれないものだからだ。
男と女の中。親と子の中。兄と弟の中。先生と生徒の中。師匠と弟子の中。先輩と後輩の中。友達と友達の中。
愛はいつも、「誰かとの関係の中」にある。
一人でいるときでも、心の中には誰かが存在しつづけている。
私たちは人の温もりを必要としてる。
今朝、両親の死を考えた私は、「母さんにとっての幸せとは?」と母にたずねてみた。
その答えを受け取ったとき、なんだか自分を(大切な人を)大切にできた気がした。
自分の幸せを考える上では、大切な人の幸せを無視することはできない。
大切な人が嬉しくなれば、自分も嬉しいし、その逆もしかり。
これは、利己主義と個人主義の違いなのだろう。
自分を本当に幸せにしようと思ったら、自分だけじゃなくて、自分のまわりにいる人も大切にする必要がある。
「自分を大切にすること」と、「大切な人を大切にすること」がイコールになる。
自分だけじゃなくて、大切な人も心から笑えるとき、人は代えがたい喜びを得る。
2 大切な人もいつかは死ぬ。
大切な人も、いつかは死ぬ。
人の終わりを見て、生き改める。
ずっと不思議に思っていたことがある。
いくら花に興味のない人でも、誰でも桜を知っている。
知っているばかりか、桜が咲けば、木の下に集い、美味しいものを食べたり、酒を飲んだりする。
桜の並木道をとおれば、満開の桜に心を躍らせ、風に舞えばその花びらを1枚、手に取ったりする。
どうして、花に興味のない人でも、桜は好きなのだろう…という何気ない疑問。
多分それは、「終わり」が見えるからなのだろう。
人は「終わり」が見えたとき、うごく。
終わりは人の心を動かす。
ソメイヨシノは満開になって、1週間もすれば散り始める。
私たちは、桜の儚い「生」を知っている。
だから毎年、なんとか桜を一目見ようと、動く。
そして「終わる」前に、桜を見ることができると、「今年も見れた!」とどこか安堵する。
いつかは散るという点で、人も同じ。
人も花と同じように、命を咲かせは、儚く死ぬ。
生きることが当たり前になっているときほど、自覚していることは難しいけれど、確かに人は死んでいく。
両親が死んだら….友達が死んだら….パートナーが死んだら….って考える(考えたくもないけれど)と、すごく嫌な気持ちになる。
けれど、これを自分の人生のタイムライン上に置くか否かで、身近な人への接し方は明らかに変わる気がする。
大切な人の死は、自分の死よりも、恐ろしい。
死んでしまうのは、すごく怖い。
けれども、それよりも恐ろしいのは、
大切な人との「死」と向き合うことを恐れ、
大切な人との「生」を大切にできないこと
だと私は思う。
考えたくもないし、向き合いたくもない。
けれども、その恐怖に向き合うからこそ、大切な人を大切にすることを始められるのだと思う。
3 大切な人を大切にできた瞬間を描く
大切な人が幸せでいる瞬間を描くと
心は自然と温まる。
最近、原付に乗りながら、ふとした拍子に未来を描く。
自分の未来、両親との未来、友達との未来、ブログを読んでくれている人との未来、子供たちとの未来。
小さな部屋のなか、皆で笑っているという単調なものから、大切な人が死んで涙を流しているという悲しいものまで、色んな未来を描く。
想像は、疑似体験を生む。
疑似体験は、心を動かし、今を見つめ直す機会を与えてくれる。
明るい未来を思い描けば、心は自然と温かくなるし、死の瞬間を思い描けば、「やり残したことを早くやろう」という気持ちになる。
リアルに想像することは、とても強力だ。
冒頭でこう問うた。
「果たして自分はどこまで、大切な人を大切にできているだろうか」と。
想像した大切な人との幸せな状態と、今にギャップがあるのなら、そこには何かやり残したことがあるということだ。
そのギャップをなくしていくように努めることが、大切な人を大切にするということなのだろう。
本当はどうなったらいいのか。
大切な人に伝えたい本当のことは何なのか。
未来をリアルに描けば描くほど、今目の前の行動は変わる。
当たり前だった今が、当たり前じゃなかったことに嘆く前に、大切な人を大切にできたら、悔いの残らない生き方ができる気がする。
描こう。未来を。
そして動こう。小さなことから。
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