現世はたしかに地獄かもしれないが、地獄だと思って地獄を生きるより、天国だと思って地獄を生きてみないか。
ハンモックに揺れる私に、吹き抜ける風が爽やかにささやく。あれほど神経を逆なでした蚊は一匹もおらず、葉音はさざ波のように聴こえて、森にも海があることを知る。憂鬱な考えにひたりがちな最近の私に、天が融通をきかせて、今日という日を用意してくれたようであった。
現世は地獄かもしれないが、天国だと思ってみたらどうであろう。長くて100年の地上の命は、選ばれたものだけに与えられた楽園であるとしたら、現世を楽しみ謳歌することが神の意志ということになる。いかにも現代人らしい傲慢な考えかもしれないが、そう思うだけで今日という日が癒されるのなら、それもいい気がしたのである。
総て世の中の人々が家を建てる目的はほとんど自分自身の為では決してなく、親の為だとか妻子の為だとか、他の家族の為に建てると云うが普通である。又は他人への見栄の為に建てたり、主君や、師匠の為に建てたりするものなのである。財産や宝物を入れる為に建てたりする事もあって決して自分だけの為に建てると云う事はないものなのである。所が現在の私の建物は純粋に私自身の為に建てたものなのである。
鴨長明 「方丈記」 (響林社文庫)
屋根までいっきに進めたが、ここにきて森の家づくりは停滞気味にある。その理由を自分なりに問うてみると、自分の為に家をたてるという本来めざすべきところから外れて、見栄のために建てようとする心が芽ばえているからであった。
森に家をつくる様子を動画にしていると、そんなつもりはなくとも人の目が気になり始める。家が歪んでいようと、壁が1cmしかなかろうと、木材がバラバラで外見が酷かろうと、私ひとりの問題であればそんなことは気になるはずがないのである。無意識のところで「そんな家で大丈夫か」「かっこ悪い家だ」と思われることをおそれているのである。くだらない自問自答がはじまり、作業がいっこうに進まなくなる。
鴨長明は、”純粋に”自分の為に家をたてたと言う。この”純粋”をもとめることは、己の人生をいかに正直に生き切るかという点に、ダイレクトに通ずるものである。大学を選ぶときも、仕事を選ぶときも、場合によっては結婚すらも、この”純粋さ”をもってつきすすむことができたら、死ぬときに絶対に後悔しない正直な人生だったと言えるのである。
我々がいつも後悔するのは、この”純粋さ”を失ったときである。自分の住む場所も、信じるものも、生き方も、なにもかも見栄や他人のために決めてしまうことが、百パーセント後悔するのである。
隠者のなかにも、世間の欲望を捨てられない「順応主義者」というものが存在した。順応主義者が笑われたのは、隠者を隠者たるものにする純粋を求める心をごまかしたからである。
繰り返しいう。純粋に自分の為にやってみることだ。自分の為に家をつくっているのに、誰かから何かを言われることをおそれて、テンプレどおりの家になってしまったら、既製品となんら変わりなくなってしまうぞ。
この宇宙に唯一のものを編み出したいのだろう。自己固有の人生を歩むことに憧れているのだろう。それならば、人生からくだらない他人の目線を排除し、もう一度孤独となるしかないではないか。
お前に足りないのは孤独だ。くだらない現世のしがらみに縛られていたら、いつまで経っても憧れには届かないぞ。
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