独り黙々と生きている。この時代に生まれたほかのみんなは元気にやってるかな。
一人の時間がつづくが、私にとってこの時間は魂の修行のようなものだ。日々どうしようもない寂しさに襲われながらも、孤独に苦しんだ分だけ傲慢さが溶けていくのを感じている。
思い返せば、愛に生きていると感じる時はいつもそんな瞬間だった。孤独の苦しみは、傲慢で塗り固められた鎧を、コツコツと金槌で杭を立てて砕いているようだと感じる。傲慢な鎧に少しずつヒビが入って最後にはバラバラに壊れていく。鎧が壊れる瞬間は恐ろしいが、生身の人間として生きる時の、生々しさは感じられる。この生々しさを通して人との交わりに、私は愛に近いものを感じる。
生身の人間だからとても脆弱だ。外からの刺激をもろに受ける。外圧によって今にも潰されそうになる状態を、内圧によって必死に保ちながら、今日を生きるための戦いを繰り広げている。この状態はとても不安定だから、きっと昔の人は神や天皇に心の拠り所を持ったのだと思う。でも生身だったから、美しかった。
私は「家」の概念が心の拠り所に通ずると信じてきたけれど、最近は誰かの魂を感じることが心の拠り所の本質ではないかと感じるようになった。本にしても映画にしても、信念に生きた人間の魂を感じて、私も同じように生きる同じ存在だと自覚すること。つまり自己の内に、魂の出会いを果たすこと。
心の拠り所は、自分が生きてもいいと思えた世界と、同じ世界に生きていることを思い出すためにあるのだと思った。
世界から孤立しそうなとき、共に在ることを知るためにあるのだと思った。
あなたと私は同じ世界にいると、言葉をいただくためにあるのだと思った。https://t.co/CplcQhfzye— 内田知弥(とむ旅, もらとりずむ) (@tomtombread) September 2, 2022
肉体の執着から離れ、損得勘定の身ぐるみを剝がせたとき、人が綴る言葉は、人の魂そのものになる。「言葉に魂が宿る」という言い方でもいいかもしれないけど、純度が上がれば上がるほど、言葉は魂そのものになる。そこに出会いがある。
もし私の言葉が誰かにとって本当の価値を生むとしたら、私自身の言葉が、私の魂そのものになったときだろう。そこを目指す。
精神修養 #41 (2h/92h)
葉隠の一句「修行は大高慢にてなければ役に立たず」の精神をモットーに瞑想に励む。
「いやいや私なんて」と振る舞うことは一見謙虚に見えるが、その気持ちの本音を探れば、本当は自分の力を信じきれていないのだと思う。そんな姿勢では、魂の修行は成り立たない。故に、大高慢になることを必要悪として、葉隠は教えている。同じ人間にできているのだから、自分にできないはずがないと。この心持ちで1時間座り通す。
生じる思考を観察しながら、思考が水平方向に働くものか、垂直方向に働くものか性質の違いが分かるようになってきた。ただ今日、私が認識できたのは、水平方向に働く思考だけで、なんとなく思考が帯びる肉体的な欲望や、損得勘定をぼんやりと見つける程度にとどまった。
そもそも、垂直方向に働く思考は存在するのだろうか?脳は肉体の一部である以上、この大前提が覆されない限り、欲望の鎖からは解放されない気もしている。
[夕の瞑想]
孤独が中断された心は浮足立っているようで、1時間通して呼吸に集中できた時間はほとんどなかった。反応的に振る舞うとき、(日中気づくことはまずないが)身体に緊張や不安の類の感覚が生じていることを最近知った。
だから反応的に過ごす時間が長くなればなるほど、「気休め」として休憩していたつもりでも、かえって疲れてしまうという現象が起きる。逆に言えば瞑想をして「反応的にならないこと」がいい休息になることも、ここに理由がつく。
人間は反応している間に、緊張や不安の類の感覚が身体に生じ、蓄積され続ける。だからどっと疲れてしまう。
この時代に生まれたほかのみんなは元気にやってるかな。朝の太陽の訪れとともに、そんなことをぼんやり思う。
「人間一生 誠にわずかの事なり。」これもまた葉隠の好きな一句。きっと人の一生は終わってしまえば夢のように儚い。だからこの身で生きているうちに、また会いたいな。会ったことない人にもまだまだ会いたいな。
それまでちゃんと出会えるよう日々負けじとがんばろう。そしてこの時代を生きる友へ、遠くの地で、今日も共に生きてくれることをただ感謝する。
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