最近すごく天気がポカポカしている。
そんな日は、何もせずに生きたくなる。
スマホも、パソコンも、テレビも、マンガもすべて手放して、日にあたりながら、ただ「ぼ~」っと生きる。
春の風に揺られながら気持ちよさそうに日光浴をしている草木の静かな呼吸を感じる。
そんな風にゆっくり生きていると
「何かをする」ことで、『不安』をぬぐおうと生きてきたことに気づく。
常に「何かしらのこと」で手が埋まっていないと、「自分が腐った人間になってしまう」という思い込みだった。
不安をぬぐおうとするのではなく
「不安定な状態でもいい」とうけいれると
一切のことがどうでもよくる。
べつに
- 「何か」をしようと
- 「何か」をしまいと
- 「何か」をしなかった結果、自分に不都合が起ころうと
「だから何だ」といまでは思う。
世の中において、本当に「しなきゃいけないこと」なんてないんじゃないか。
世の中において、本当に「大事なこと」なんてないんじゃないか。
だから、もし『何もせずに生きたい』と感じているのなら、そう堂々と感じればいい、とボクは思う。
ボクもいま、何もせずに生きたいと思う。
1 何もせずに生きたいという気持ち
「何もせずに生きたい」というとネガティブに聞こえますが、それは
自分の心身を大切にしたい
という静かな心の叫びだ。
- 学校が疲れた
- 働くのが疲れた
- 人間関係に疲れた
- 育児に疲れた
そんな「心身の疲れ」に圧倒されて、どんどん苦しくなると、「何もせずに生きたい」とつい口からポロッとこぼしてしまう。
もしかしたら、そんな「自分」を社会不適合者だの、情けないだの、恥ずかしいだの、責めてしまうかもしれない。
けれど、「何もせず生きたい」を
- 自分を責める道具として使うのではなく
- 自分の本心を大切にするきっかけ
にしてほしい。
「何もせずに生きたい」の背後には、どんな想いが隠れているのか。
- 1人の時間を取りたい
- 身体をゆっくりと休めたい
- 趣味に没頭したい
- 大自然の中で、ゆったりと過ごしたい
- 大切な人との時間を取りたい
心の深い声をくみ取ってみると、実はそんな善意しかない。
つい自分を責めてしまったときは
「本当はどうしたいの?」
と自分に問いかけてあげてみてください。
自分に嫌悪してしまう理由なんて1つもなくて、自分を大切にできる理由しかないことに気づくと思います。
2 何もせずに生きても、生きてるなら十分じゃないか
何もせずに生きても、生きてるだけで十分だ
とボクは思う
ちなみにボク今は、何もせずにただ生きている。
ブログを書いたり、旅をしたりしているのだけれど、定職にはついていない。
ただ生きている。
嬉しいことも、不安なことも、悲しいことも、十分に感じて、
以前よりも涙を流しながら生きている。
そんな生き方をしていると、「働く」という概念が崩壊してくる。
よく、好きなことを仕事にして「遊ぶように働く」人がいる。
けれどボクはいま、そもそも「働く」という言葉の意味がよく分からない。
- 『人生=生きること』であり、
- 『人生=働くこと』でも『人生=恋愛すること』でも『人生=好きなことをすること』でもないから
そういう意味で、本当にボクはいま何もしていない。
何もせずに、ただ生きている。
面白いことに、「働く」という概念がなくなると「ニート」という概念もあいまいなものになる。
ニートは「働く」を前提とした、社会の見方だから。
働いている人も、働いていない人も、大人も、子供も、すべて同じ「人」だ。
そんな人が、地球の上で呼吸をしながら、ただ生きている世界。
そんな世界に今ボクは生きている。
だから俗世間から見れば、ボクはいまニートなのだけれど、「それが何だ」と思う。
今日も地球に足をつけて、呼吸をしながら生きているのだから、それで十分なんじゃないかって。
3 何もせずに生きるのは死んでいるのと同じ?
働くことが当たり前の社会で生きていると
何もせずに生きることが、まるで「死」のように捉えられる
ことがある
ボク自身も、教員として働いていたころは、「ニート」は社会的に死んだ存在だと思っていた。
だから、ニートになった時は思っていた通り「死んだ」。
安定、地位、見栄に縛られていたから、何もしない生き方がすごく苦して、ずっともがいていた。
けれど、1回死んだからこそ、生きることを学べたと思っている。
自分の中のルールを取り払って
- 安定していない自分
- 格好良くない自分
- 地位のない自分
を赦すこと。
そして、ただ生きること。
不死鳥は死んでも何度でも蘇って、その度に強くなると聞いたことがあると思う。
古代エジプト神話では、不死鳥は、毎晩、神殿の炎に飛び込んで死んでは、毎朝その炎から生まれると信じられていたらしい。
人も不死鳥のようなものだと思う。
飛び込んで死んだから、新しい自分を生きられる。
死に飛び込んだからこそ、生きることを学べる。
- 「安定」に生きることをやめると、誰かの顔色をうかがうことがなくなる。
- 「見栄」に生きることをやめると、自分を取り繕うことがなくなる。
- 「地位」に生きることをやめると、年齢関係なく、人とフラットに接しられる。
そうやって少しずつ、自分を大切にする生き方を学んでいくのだと思う。
可も不可もない、善も悪もない、1つの生命として。
わたしは一応、定職についています。
なので今は10連休中です(^^)
休みに入る前、
「10日も休んだら仕事したくなくなっちゃうな~」
と思っていました。
休みに入って3日くらいたった頃
「もう休みいらないー…することないー仕事したいー」
と思いました。
せっかくの休みなのに、使い方がわからなくて、ネタがつきちゃったんですよね~
そして休み最終日を迎えようとしている今
「あ、休み終わっちゃう…仕事か~嫌だな」
とか思っています!笑
仕事をしていると、嫌だと思いながらもなんとなくそんな毎日が当たり前になり、
今回のような10連休なんかすると、休みに慣れて、仕事が嫌になる…
全て慣れなのかな~
やっぱりわたしは、『なんとなく生きてる』んだなって思い知ります。
でもきっと、これが安全だって知っているのかな…。
小さな夢や、本当の理想や憧れ、そんなのはきっと沢山持っているのに、ただ生きてる。もったいないと感じながらも…。
だからやっぱり、とむさんはキラキラしていて眩しいです(^^)
旅の様子をYouTubeで見て、間接的に(?)旅してる風を味わうのが今のわたしの楽しみです!笑
わたしの世界は小さい~・・・(´・ω・`)
って、長文になってしまいましたね…(^^;
Machikoさん
わあ!ブログだけじゃなくて、Youtubeも観てくださっているのですね(^^)
本当に嬉しい!
ちょうど最近、友達にYoutubeの感想を聞いたところ、「あれはまあひどいよね」と言われ…(笑)
「うるせえ! あれは異世界の空気感や、旅の冒険感を楽しむための動画なんだよ!」
なんてやり取りをしていたので、「旅してる風を味わう」と言ってくださったことは、ボクにとっての救いです(笑)
ボクは自分の旅動画がすごく好きです。
万人受けしなくても、その感覚の合う人、好きな人が楽しめればいいのかな、って思ってます。
だからこうして、自分の「好き」を、楽しみと伝えてくださったことが、すごくすごく嬉しいのです。
自分の表現に共感していただくことは、こんなにも嬉しいことなんだな~と改めて感じています。
今日で、GWも最終日。
Machikoさんのおっしゃるとおり、ずっと動いていると止まることに力を使いますが、止まってしまえば動くことに力が必要になりますね。
動いてしまえば、また走り出せるものですが、いきなり全力疾走するのではなく、
自分に寄り添いながら、時には立ち止まりながら、自分のペースで走りたいものです。
改めてコメントありがとうございました(^^)
こうした温かいメッセージをいただけて、すごく力をいただきました^^