自分の絶望に関する無知の状態においては人間は自己自身を精神として意識している状態から最も遠く隔っている。ところで自己を精神として意識していないというちょうどそのことが絶望であり無精神性である、―こういう状態はときとして完全な無気力の状態でもあろうし或いはまた単なる酔生夢死の生活ないしはまたかえって精力の倍化された生活であるかもしれない、とにかくその秘密は何といっても絶望である。この最後の場合には絶望者の状態はちょうど肺疾患者の状態に似ている、―病気が最も危険な状態にあるちょうどそのときに、彼は一番気分が好いのであり、自分にはこの上なく健康のように思われ、おそらく他人にもまた健康で輝いているように見えるのである。
キルケゴール, 「死に至る病」
孤独を友にするとき、自己が精神であると意識することは容易い。孤独とは、自己が精神であることを意識している状態ともいえる。だれかと一緒にいると、これが途端に難しくなる。自己が精神であることの意識は薄れ、肉体であることの意識が強まってゆく。例えば、誰かと一緒にいれば、道化を演じることがある。場を取り繕い、善人として振る舞ううちに、処世術のために精神は取り残されてゆく。
分別の足りない少年や青年ほど、精神と肉体のどちらがほんとうの自分か分からなくなることがある。一人でいるときの静謐さには、”ほんとう”である感覚がある。だが、外に足を踏み出せば、世間は喧騒と道化に満ちあふれ、実は精神である感覚のほうが偽物ではないかと思えてくる。こうして、精神と肉体の分離がはじまる。”自分探し”という言葉を今日よく耳にするが、実はこの分離感覚に葛藤しているだけなのかもしれないと思う。自分に偽りを感じるのは、”やりたいこと”をやれていないからではなく、精神を置き去りにすることの違和感である。
人間は精神であることを意識するとき無気力を克服する。逆にいえば、物質主義は無気力の温床である。金があれば物に満たされて気分はよいが、その内実は空虚である。私は”無気力”に悲憤をおぼえる。力の哲学を重んずるのは、それが人間のあるべき姿だと信じるからである。
だが、精神だけに与するつもりはない。私の心に眠る望郷の日本は、精神だけに与したストイシズムではなかった。気高い武士の精神のもとで、百姓は自然に智慧を見出し、豊穣の大地に感謝した。日本人は精神を重んずると同時に、地に足の着いた生活者であったのではないか。つまり、自己を精神だけでなく、肉体としても弁えていた。ここに日本人の内外充実した民族性を見るのである。生活に根をはりながら、風に乗って詩を詠んだ、美わしさが日本にはあったのである。
2024.4.8
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