神を求めるものは山へゆき、魂を求めるものは砂漠へゆく[658/1000]

自己は、ひとたび絶望の経験を通じて自己自身を自覚的に神のうちに基礎づける場合にのみ、まさにそのことによってのみ健康であり絶望から解放されてありうるからである。

信仰や智慧というものは歯や髪のように年とともに自ら成長してゆくもので容易に手に入るものだと思いこんでいるのである。いな、たとい何に人間がこのようにひとりで到達できようともないしはまた何がこのようにひとりでに人間に具わってこようとも、信仰と智慧というこのものだけは断じて自ら具わってくるなどということはない。

キルケゴール, 「死に至る病」

 

幼年期、あの世からこの世へと遣わされたばかりの、自我もおぼろげな状態だ。穢れがなく罪もない。ゆえに赤子をみれば、天使を思う。

 

少年期、世界は依然と神秘に包まれている。かつて私も、近所に住む5人の子供で冒険団を結成し、地面の下にある大きな排水路に潜りこんで探検したり、廃工場の裏や森のなかに秘密基地をつくったりした。神秘に包まれた世界では、想像の翼が羽ばたいて、少年には永遠を夢みることが許された。

世界を”知らない”ことは未熟であるように思われる。だが、世界を”知ったつもり”になってしまうほど、残酷なこともない。知ることは歓喜であるが、同時に、幻滅である。私が今日の少年に同情するのは、世界の裏側まで容易に”知ったもつもり”になれてしまう便利な道具が整いすぎていることである。少年にとって、神とは「未知」と「冒険」であった。彼らの冒険を、堕落した大人たちが台無しにしてしまうのはいかがだろう。少年を甘やかし、言いなりに物を買い与えれば、従順の背後で少年は静かに絶望を深めていく。

 

青年期、肉体はもっとも神に呼応する。原始キリスト教では「神を求めるものは山へゆき、魂を求めるものは砂漠へゆく」と考えられていた。私はつい最近この言葉を知り、ずいぶん感銘を受けた。なぜなら、私自身、20代の大半を渇いた砂漠でぶっ倒れることに焦がれつづけてきたからだ。今でこそ言えるが、私が求めつづけたものは、成功でも、金でも、愛でもなく、人生の虚偽を烈しく打ち破る、魂であった。ゆえに、私は砂漠に斃れることを焦がれる青年に詩をおくる。

 

以上のように、これまでもこれからも、私は人間の一生を、神との関係のうちに描いていく。キルケゴールのいうように、自己自身を神のうちに基礎づける場合にのみ、人間は健康となり絶望から解放されると信じるからである。言い換えれば、神との関係のうちに刻んだ詩編だけが、人間の一生を祝福するものだと信じるからである。

 

信仰も智慧も、何もしなければ失われていく。見よ、世の退廃を。政治家の腐敗を。そうならぬよう、日々、魂に触れ、身体に重くのしかかる重力に抗いつづけるのだ。私は読書に救われた。信仰と智慧を束ねるものは、古本屋で一冊百円で売られているような書物であった。幸い、金はかからない。この点、私は世界をこのように創造した神に何よりも感謝している。

中年期、老年期。私にとってここからは未踏の領域である。だが、これまでの神との関係を顧みれば、青年期に掴んだ魂を処世術のうちに窒息させぬまま、魂のまま貫いていく強さが求められよう。掘り起こしたものを、また埋めるような馬鹿な真似はよそう。魂は救済されてゆくのだ。そこに向かっていくだけだ。

 

2024.4.7

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