知りもしなくていいことを知って身を疲弊させるくらいなら[643/1000]

風はどこからやってきて、どこへと去ってゆくのだろう。春のつめたい息吹が、ねぐらから顔を出す動物をおちょくっている。暗い土壌の下では草木が芽吹きの支度をととのえて、天井を突き破り燦々とかがやく陽光を浴びる日を、今か今かと心待ちにしているようだ。

春、一年のうちでもっとも陽気な季節。孤独の冬に終わりを告げ、あらゆる動植物は再び世界との巡り合いを果たしていく。悲哀の季節でもある。もう一度、光の注がれる世界へ下ることは、分け隔たれる哀しみでもあろう。

生きとし生けるすべての者に、朝一番の太陽が降り注ぐ。春風に身を浸せば、この世の罪を忘れられるようだ。焼きつけた臓腑はたちまち癒されて、涙の谷にも小鳥のさえずりが響き渡る。麗しき春だ。神が創造したこの世界と、季節がもたらした悪戯の数々も、春の優しさに包括されすべてを愛することができるだろう。

 

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自分の知らない大きな世界よりも、自分の傍にある小さな世界を生きられたらと願う。知らなければ怖ろしいが、実は何の役にも立たない遠い星のことよりも、手に触れることのできる庭先の花々や、今晩食べるであろう畑に育つ野菜の面倒をもっとうまく見れるようになれたらと願う。忘却は忘却でも、積極的な忘却にしよう。知っても生活に益しないばかりか、むしろ生活を悩ます種になることは、有毒な知的享楽でなければ何であろうか。

 

大きな世界に羽ばたこうとする青年を悪く思うものは今日どこにもいない。だが、生まれ育った小さな町から一生出ることなく、地道に生きる人間を愚かだというのは大間違いである。交通機関の発達した今日では、一所で懸命に生きることのほうがむしろ難しくなかろうか。土地に深い根を下ろす人間は、世界に無知な存在が思えるが、大地に深く張られた根をみれば、彼らの知恵はむしろ勝っていることの方が多い。

 

私は生活者を敬う。生活者とは、素朴に生ける者のことだ。天気予報を見ずとも、風向きが変われば天候が変わることを知っていて、毎朝、波の荒れ具合を確かめては、魚の取れ高も勘定できる。煙突掃除や、家の修繕や、畑の手入れまで、身の回りのことに長け、外国のことは知らなくとも、自分の住む土地や人間のことは誰よりも深く知っている。

素朴な人間は、神より授かった感覚器官を最大級に敬うすべを知っている。ゆえに、感覚器官は宇宙の力に満つ。これは素朴と力の哲学である。感覚器官に力が満ちるほど、神の創造した自然との交信も膨らみ、人間はそれだけ元気になる。

つまり私の言いたいことは、知りもしなくていいことを知って身を疲弊させるくらいなら、世間知らずのおくれた人間になろうとも、下手くそなりに畑を耕して、木陰で寝そべりながら空を眺めていることのほうがずっといいということである。力を賛美する生命に、それができるものならば。

 

2024.3.23

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