本当に命を大切にするために一度命を生かさなければならない[261/1000]

岐阜県池田町のとあるお寺の前を歩いていたとき、お寺の前の掲示板に1つの語録が張り出されていた。

「命よりも尊いものがあるから、命の尊さが分かる。」誰の言葉かは知らないけれど、ずっと心に残っている。

 

百田尚樹、永遠のゼロ。

皆が国のために死ぬことを正義とする時代に、帝国海軍、宮部久蔵という一人の男は人間の命の大切さを信じた。これは、厳格な律法に人々が神の罰を畏れる時代に、愛の神を説いたイエスと同じものを感じる。

 

皆が国のために死ぬことを誇りだと思う時代に、人間の命が大切だと信じれば、周りから臆病者だと非難される。イエスも最初は、愛の教えは無力だとして、民衆から理解されず憎まれた。

時代において絶対となった価値観の対立を貫くことは、黒を白と言い、赤を白と言う、葉隠の生き方そのものだ。皆が国のために死ぬことが正義だと考える時代に人間の命の大切を説くことと、皆が人間の命が大切だと考える時代に人間の命の大切を説くことは、まったく別者であり、価値も違う。

 

前者は生命が生きている。時代を突き破ることで、生命は躍動する。後者は時代に倣っているに過ぎない。生命的には流されていて、今日、命が大切だと妄信する人々が、戦前には国のために死ぬことを正義としていた。

生命の燃焼だけを見れば、言葉のwhatは問題ではなく、時代の道徳や常識を背負いながら、どれだけ突き破っていたかが問題である。時代の道徳や常識に潰されれば、善人となって、生命は流されていく。

 

永遠のゼロは、言葉のwhat、つまり「命が大切であること」を説いた作品ではない。「本当に命を大切にするとはどういうことか」を説いた作品だと思う。そして、本当に命を大切にするとは、自分の生命を生かすことであり、自分の生命を生かした上で、自分で生命を終わらせることを言っているのだと思う。

 

宮部久蔵は、自分は死にたくないと言い、教え子が死ぬことを悲しみ、人間の命が大切だと信じたが、最後は特攻隊に志願して死んでいった。なぜ宮部久蔵が特攻隊に志願したのかは、劇中の問いとなっている。

命を尊さを知らない人間が命を奉げたのではない。自分の生命を生かし、命の尊さを知った上で、その尊い命を自ら捧げた。悲劇で、不幸で、悲しい歴史であるが、宮部久蔵にとてつもない生命の重みを感じるのは、本当の意味で命を大切にすることを意味していたからだと感じている。

 

「命よりも尊いものがあるから、命の尊さが分かる。」と冒頭で紹介した。命を大切にしたければ、命を大切にしているかぎり、本当の意味で大切にはできない。人間が人間であろうとするためには、人間以上のものを欲しなければならない、というドストエフスキーの言葉と同じだ。

本当に命を大切に思うとき、一度、時代の道徳を突き破って生命的に生きなければ、命の尊さは分からないのだと思う。また、本当に命を大切に思うとき、生命は時代を突き破ろうとするのだと思う。それがイエスであり、宮部久蔵だったのではないか。

命を大切にするには、命を生かさなければならず、そのために時代を突き破らなければならない。そして、命を何よりも大切に思う人間が命を手放すのだから、生命は重たくのしかかる。

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