タイのきたない屋台で、愉快なおばちゃんが作るパッタイを忘れられないのは、その空間に満ちたエネルギーの大きさだった。エネルギーは物の貧しさや満ち足りなさ寒さ空腹さの中に凝縮されていく。
ガス抜きすれば人生は安定するが、本当は大爆発を起こしたいんじゃないのか。 https://t.co/dtuFWfp8zV— 内田知弥(とむ旅, もらとりずむ) (@tomtombread) November 26, 2022
電脳空間に言霊が吸収されると、実生活の質量が軽くなる。
自分の言葉が不特定多数の人間に届くことは夢があるけど、一方で失われるものもあるかもしれないと感じている。
言葉は、悲しみ、怒り、恐怖、渇望、喜び、感動など何かしらのエネルギーを元に発せられる。エネルギーが荒々しいほど言葉も荒くなり、無気力になれば言葉を発しようとも思わなくなる。死んだ人間は言葉を発せられないように、いつも言葉は放ち手のエネルギーを源泉とする。言葉を放つとは、自己のエネルギーを言葉に宿すことだ。このエネルギーを言霊という(のだと思う)。
元気になる言葉を人に贈ることはエネルギーを与えることで、人を不快にさせるときは負のエネルギーを発している。数年前に読んだ「聖なる予言」に、人はエネルギーの奪い合いをしていると書かれていたことを思い出す。我々は日常の言葉を介して、エネルギーの吸収と放出を行う。世界はたえずエネルギーが交差しており、何なら我々の存在もその本質はエネルギーかもしれない。
誰でも自分の言葉をネット上に書くことができるようになったことで、世界のエネルギーが電脳空間に吸収されている感覚をおぼえている。
「葉隠」を生きた三島由紀夫のことが知りたくて、三島由紀夫と東大全共闘の映画を観た。学生運動が行われていた50年前は、同じ日本だと思えないほど世界に熱気があった。火炎瓶があちこちに飛び交うなんてことは今では想像できない。殺意、恐怖、悲しみ、絶望と希望、あらゆるエネルギーが凝縮して、爆発したのが学生運動だったように思う。
映画を観て、世界の重みを感じていた。世界がエネルギーに満ちていると感じた。目視はできないが、肌感覚としてエネルギーの重みを体験している。タイのきたない屋台で、愉快なおばちゃんが作るパッタイを食べたことが忘れられないのは、その空間に満ちたエネルギー量の大きさだった。エネルギーは物の貧しさや、満ち足りなさ、寒さ、空腹さの中に凝縮されていくのだと思う。
重みのある日々を生きたいのは私だけだろうか。エネルギーが欲しくて家のない生活をしている。生き方が綺麗になり始めたら、どこかでガス抜きが行われている証拠なのかもしれない。ガス抜きされれば暴発のない分、人生は安定するかもしれないが、本当は大爆発を起こしたいと思っているんじゃないか。
エネルギーが凝縮されることは、苦悩に耐えることを意味する。ネットを始め、快楽で誤魔化したくても、ひたすら耐えることを意味する。自己にかかった圧力を、水平方向ではなく垂直方向に爆発させる。耐える必要はあるが、それが魂が歓迎する生き方であることは間違いない。
精神修養 #70 (2h/148h)
「法を身とする」とは自我を完全に滅することではなく、自我に法を同化させていくことだろうか。自我が完全に消える境地を私は知らず、生きている間にそこに辿り着けるとも思わない。
膨れ上がった自我と真の傲慢さに生きることは本意ではないが、武士は主のために命を注ぐという強い意志はあった。自我と法は、言い換えれば肉体と魂であり、同化させようとするほど、拮抗作用を生む。自我を滅して完全に法を身にまとうのではなく、法を身に同化させていく(のだと思う)。
ここにある肉体、心、魂を見なければ、浮足立つ結果となりそう。
[夕の瞑想]
自我という言葉を当たり前に使うが、そもそも自我もエネルギーなのだろうか。このエネルギーには固さがあって、固くなれば人間は頑固になり、柔らかくなれば、宇宙から愛のエネルギーが溶け込んでくるのだろうか。
自我を完全に滅することはできない以上(そう思っている)、「法を身とする」という言葉の意味は、自我にとって代わって法が私になるのではなく、自我のエネルギーに同化することに感じている。(ここについての答えを出すには時期尚早)
いつも魂の追求が人生の中心にあった。仕事をしても、勉強をしても、旅をしても、本を読んでも、友人と会っても、その先には魂に生きることをいつも考えていた。今こうして自分を孤独において、自己と向き合う日々は宿命だった。
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