自分が自分を赦す存在になることよりも、人間を赦す大きな存在のもとに生きるほうがずっと大事ではなかろうか。
仮に自分で自分を赦したとて、原罪が消えるわけではない。涅槃に到達するわけでもない。欲望の炎は臓腑を焼きつづける。非物質の堕落たる物質として、無機物の堕落たる有機物として、現世にかわらず存在しつづける。もし、ほんとうに赦される瞬間があるとするならば、それは死ぬときだろう。肉体から解放され、欲望から解放され、罪から解放される。
われわれはなぜ、死んだ人間に花を添えるのか。葬式のときに美しい棺や布を纏わせるのか。人生を果敢に遂げたことへの最大限の労いである。だがそれ以上に、われわれは死んだ人間に敬虔で特別な気持ちを抱く。物質から非物質へ、現象から非現象へ、地上から天上へ、罪から赦しへ、現世から永遠へと向かう彼らを前に、生きているわれわれは彼らとは違い、いまだ俗塵に取り残された堕落した存在であると理解する。
生きているかぎり完全な赦しを得るには、魂の忘却しか道がないだろう。人間を忘れ、痛みや苦しみを何もかも忘れてしまうことだ。ああ、そんなもの忘れられたらとどれほど願うだろう。それが叶わぬから、痛みと哀しみを忘れさせてくれと天に祈る姿が美しいのだ。
自分を赦せぬ人間は、他人を赦すこともできぬという。これは当たり前のことだ。自分に自分を赦す力がないのに、どうして他人を赦すことができよう。だがそもそも、赦す赦さぬの力を有することは、われわれの問題だろうか。昨日も書いたが、自分とは人間の罪を赦せるほど優れた存在なのだろうか。自分が人を裁き、赦す赦さぬを扱うことは、傲慢の沙汰ではないのだろうか。
江戸時代、親や兄弟を殺された武士は、かたき討ちを取るのが常であった。誰かを赦すとか赦さないとかそういうことよりも、己の力を人生の要求に屈服させないことのほうがずっと大事ではなかろうか。
赦せぬなら赦せぬでよい。ただ己の力でどうにかせよ、ということだ。己の力を放棄して無力になった者が、他者に不満を抱くようになる。他人を赦せぬ人間に足りない者は、他人を赦す力ではなく、己を恥じることだ。世界の要求に対し、赤ん坊のように無力を振る舞う自分を恥じ、少しでも力を取り戻すよう努めることだ。
力の原理で生きる人間は、自己の生命に責任をもつ。隣の華美な家を羨むより、大空を見上げて問いつづける。赦す赦さぬなど、そもそも検討にすら値しない。天より授かった宝刀を、台所の包丁として扱ってなかろうか。この世に生を享けたと同時に授かった、生命の焔をもやしつづけることだ。今日、神に対する義務があるとすれば、私のこの一点であると信じるのだ。
2024.3.20
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