「誰も傷つけたくない」なんて気持ちは、甘っちょろいヒヨコの考えだろうか。
悲しかったり、苦しかったり、辛かったり、自分のことでいっぱいいっぱいになると、人の気持ちを考えられなくなる。自分を圧倒し続ける感情を対処することに必死になって、人の立場への配慮のかけた言葉や、攻撃的な言葉を発してしまう。
いつも気持ちが落ち着いた頃合いに、もっと相手の立場を考えた言葉遣いをすればよかったと後悔する。
本当にごめん、と両手を合わせたくなる。しかし傷つけた相手は、既に傷ついてしまってる。なかったことにはできない。その時の自分も、その時のベストを尽くした。ただ起きた出来事を受け入れて、前に進むしかない。
そんなこと感じてる、朝。
毎日人は傷ついている。毎日人を傷つけている。
誰かから直接、心無い言葉を受け取っていなくても、自分の思い通りにいかず自分を攻撃することもあるし、話を聞いてもらえる人がいなくて孤独に潰されそうになることもある。ネットで人と比較して、自分はつまらない人間だとか、才能がないとか、幸せじゃないとか、延々と思い煩うこともある。
それだけじゃない。人を介していなくても、道路に充満する排気ガスは気持ち悪いし、照り付ける太陽に頭が痛くなることもあるし、加工食品を食べすぎて、肌を荒らしたり、お腹を壊したり、風邪をひいたり、よく分からないまま無気力になることもある。
今日も1日が始まろうとしているけれど、今日を完全な無傷で終えられる人はいないんじゃないかな?
今、楽しそうに生きている人も、苦しい思いをしている人も、その人なりの戦いをしている。
誰も傷つけたくない気持ちは、甘ちょろいヒヨコの考えか?と自問して、甘ちょろいヒヨコの考えかもしれないと、自答している。
そもそも傷つけたとか傷つけられたとか、この類の話は、大して重要じゃないような気がしている。
たぶんだけど、傷つけたとか傷つけられたとか、いちいち敏感にになってたら、「今日を無傷で生きること」が目標になっちゃうんじゃないかな。
私がまさにそうだったけど、傷つかないことが目標になれば、家に引きこもって外に一歩も出ないことが最適解になる(ような気になる)。
もちろん引きこもっても、心は勝手に反応して、世界からメッセージを受け取り続けるから、傷から逃げたつもりでも傷つくことからは逃げられなくて、地獄のような日々になる。
傷つけたとか傷つけられたとか、考えれば考えるほど、今ここにある世界は傷だらけで殺伐としちゃうんだ。
だからもう、考えるのやめ!
人の痛みに敏感になれるのだから、どうせならその力を楽しくなれる方へ!ハッピーになれる方へ!使っていったほうが、今元気になれる気がする。
その繊細な心で相手の立場に立って、どうしたら喜んでもらえるかを相手の立場から考えるだけで、傷の世界は、愛の世界に変わっていく!
ん~、なんだか今日のブログ、とっても抽象的なお話ばかりになっちゃったなぁ~。
感じたことをそのまま書いていたら、中身すっからかんになってしまいましたが、どうか許してくだせえ・・・!
なんだか今朝は、悪夢で目をさまして、とっても嫌な気分だったのです。
悪夢の内容まで書き残すのは気持ち悪いので、省略しますが、気持ち悪さを1つずつ紐解いていくと、一昨日、人と分かち合うことに失敗した悲しみと、悲しみを心無い言葉に昇華してしまった自分を恥じながら後悔しておったのです。
>本物はここにしかない。今ここにあるものだけが本物だ[43/1000]
私を含め、偉そうに見える言葉や、攻撃的な言葉ほど「私はこんな生き方をしている」「私はこんなにも頑張ってる」っていう具合に、誰にも分かってもらえなくて発狂しちゃいそうになる自分の正気を保つために、必死に肯定しているだけなのかもしれません。
まさに今日の「傷つきたくない」というテーマで、過去に「あなたは甘い」と言われたことがありました。あなたは甘いという言葉の裏にも、「私はこんなにも苦しんでいる」という悲痛な叫びと、「私を分かって」という孤独に耐える願いが聞こえました。
「私を分かってほしい」
きっと皆こんな気持ちを、少なからず抱えているのだと思います。私はそんな分かってほしいという気持ちの声をそのまま聞きたいです。
今週は、埼玉周辺にいます。もしちょっとお茶でもしようよという方がいれば、ご連絡くださると嬉しいです!(車です!)
ではまた明日!ばいばい!
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