都内のマックにいる。
昨晩は、横殴りの風が吹き、雨にさらされながら寝た(寝れなかった)。
仕方なく、朝の3時に起床して、原付で移動…今に至る。
物がない生活をずっとしていると、物がある都会が逆に不便になる。
「やりすぎだ」って感じる。最低限必要としているものがあれば、今の私にとっては十分で、必要以上のものがノイズに感じてしまう。
物だけじゃない。音も、光も。
広い自然を仰ぎたい。— とむ(原付テント生活) (@tomtombread) July 3, 2019
旅をしていると、傷つくことがある。
先日は、傷心に傷心に傷心が重なり、「こんな世界生きてられねえよ…」とくらいにまで追い詰められた。
そんな最中、千葉で会った友達に、焼き肉をご馳走してもらった。
「思いっきり食おうぜ。」と彼は言う。
「思いっきり何かをする」って、心がくすぶっている状態にはうってつけなんだと思う。
傷心している時にいつも助けになるのは、思いっきり食べて、思いっきり泣いて、思いっきり寝ることだ。
以前、「人生は振り子のようだ」と比喩した。
人生は振り子のように、マイナスへの振れ幅が大きいほど、プラスへの振れ幅も大きくなるということ。
どうやら、これは「振り子の法則」、「正負の法則」というらしい。
それで再確認したことがある。
私たち人間は
心で痛みをしっかり感じるからこそ、
心で歓びをしっかり感じられる
のだって。
例え、苦しい思いをしていようと、必ず良い方向に振れていく。
そう信じて、心が痛んでいる自分も、抱きしめてやればいいのだろう。
1 心の痛みは、心の歓びを知るためにある
心は痛まなければ、心は歓びを感じられない。
痛みは歓びであり、歓びは痛みだ。
私はいま、孤独を感じることがとても多い。
一人で朝を迎え、原付で移動し、食事し、景色を眺め、こうして文章を書き、一人テントの中で静かに寝る。
人と話しても、生き方を理解されないことも多々あり、そんなときはさらに孤独を感じる。
自由に見える私の生活も、大半は「孤独」を味わう時間の方が圧倒的に多い。
そんなこともあり、こうして人に出会うと、1つ1つがものすごくかけがえのないものに感じられる。
話を心で受けとめてくれることに感動をおぼえるし、一緒に笑ってくれることに「なんて素敵な繋がりに恵まれたのだろう」と愛情にあふれる。
これって、お腹がペコペコのときに食べるご飯が、ものすごく美味しいのに似てる。
人との繋がりが「当たり前」のことではなくなるから、些細な人との繋がりが特別な時間になる。
- 傷ついたあとにふれる、人の優しさはとても温かいし
- 孤独のあとの人との出会いは、愛の安心感に包まれる
私たちは普通に生活してると、「痛みのない人生」を歩もうとする。
「痛み」は悪で、「快さ」が善だと一般的には思われている。
私も無意識のうちにそう思っていた。
けれど、本当は善も悪もない。
便利な言葉に頼っちゃうと、この2つは「表裏一体」の関係にあって「振り子」のように揺れ動いてる。
だから、どちらかを捨てて、どちらかだけを得ることなんてできない。
悲しむのは、喜ぶことを知っているから。
泣くのは、笑うことを知っているから。
絶望するのは、希望に生きているから。
不自由になるのは、自由を知っているから。
「心の痛み」を味わうから「心の喜び」も味わえる。
痛みを味わなければ喜びも味わうことができない。
きっとそれを身体で知れたとき
痛みは、人生を「不幸にするもの」から
人生を豊かにする「肥やし」へと変わっていく
のだと思う。
2 心の痛みを受け入れることで、心は歓びを迎え入れる
心の痛みを受け入れるから、心は歓びを迎え入れられる。
痛みは思いっきり貫通したほうがいい。
心の振り子は、「思いっきり味わう時」に反対に動き出す。
思いっきり泣いた後に、スッキリして前にすすめること、ルンルンな気分も落ちてしまうこと、どちらもそう。
私たち人間の難しいところは、
- 「快」は無意識のうちに味わえるのだけれど
- 「不快」は意識しないと味わえないということ
嬉しいことや楽しいことがあったら思いっきり笑っていても、悲しいことや辛いことがあっても我慢しちゃうことない?
私はそんなことが昔あって、いつも誤魔化してた。
感情は「味わう」だけじゃなくて「貫通」した方がいいと思う。
目先の感情を快楽でごまかすことなく、味わい続けてストンと貫通させる。孤独をつき抜けた先の自分、恐怖をつき抜けた先の自分、そこにいるのはどんな自分なのだろうか。
人間の深みってそんなところにあるんじゃないかな。
— とむ(原付テント生活) (@tomtombread) June 17, 2019
目標を達成できたときは、嬉し泣きする。
そのくせ、上手くいかないときは、心を無視して無理やりポジティブに考えようとする。
「ポジティブシンキング」っていうけれど、ネガティブにフタをするポジティブは、不健全だと思う。
心が悲しんでるときに、頭で笑おうとしても、それはむしろ誤魔化しているだけだ。
心が悲しんでるなら、悲しんだほうがいい。
心の痛みは、思いっきり感じきることで、喜びへと変わっていく。
人と出会っていくと、「泣くこと」に抵抗感を抱いている人が意外といることを知った。
涙を流すことは、恥ずかしいことではない。
涙を流すことは、感情を突き抜けることだ。
泣いた分だけ、人は強く(弱く)なっていくのだと思う。
- 孤独をつきぬけるほど、人との繋がりを大事にできる
- 悲しみをつきぬけるほど、喜びも大きくなる
- 苦しみをつきぬけるほど、楽しみも膨らんでいく
それは過去も同じ。
過去の悲しかったできごと、苦しかったできごとも、当時の感情をに涙を流すから、癒されていく。
だから心が泣きたくなったら、思いっきり泣くことだし、悔しいのなら、思いっきり悔しがることだ。
思いっきりの泣いた後は、思いっきり笑えるようになる。
3 心の痛みの分だけ、人生は豊かになる
心の痛みを突き抜けた記憶はずっと残る。
死ぬときに、豊潤な記憶に心を震わせたい。
進化論という概念がある。
使うものは進化するし、使わないものは退化する。
多分これは、心においても同じだ。
心の痛みや喜びは感じるたびに、どんどん鋭くなっていく。
けど感じることを避けてしまえば、感じる力はどんどん弱くなる。
私はよく過去を思い出す。
楽しかった過去も、辛かった過去も。
不思議と、いつも記憶に残っているのは、「心の振り子が、思いっきり揺れた瞬間」だったりする。
死にそうになった瞬間とか、嬉し泣きした瞬間とか忘れることってまずない。
経験しても、残る記憶と残らない記憶があるのだ。
大半のことは記憶には残らず、忘れてしまう。
それで最近はこんな風に思う。
死ぬときに人生を振り返って、
心に刻まれた記憶にたくさん思いを馳せることができたら、すごく豊潤な人生だって。
- 大好きな人に振られて死にそうになったとか
- 世界中を旅したとか
- 自分の意志で新しく仕事を始めるとか
- 偉そうな上司のみぞおちに正義の掌底を食らわせて、めちゃ怒られたとか
- 家も車も仕事も、何もかもなくなってしまったとか
「ああ、あのとき……だったな」って誰かと笑い合う瞬間は、宝物だと思う。
そこにいた全員の心が動く瞬間って、かけがえのないもの。
それは決して楽な生き方じゃなくて、むしろ疲れるもの。
効率的な生き方でもないし、むしろ非効率な生き方なのかもしれない。
けれど私はそんな生き方に憧れる。
心の痛みは「通過儀礼」のようなものだと思う。
より人間らしく、正直に、自分を全うするための試練のようなもの。
どんなに辛い経験も、極に振れてあげれば、“後味の良い記憶“へと変わる。
生きるってそういうことなのかな。
「生きる」 谷川俊太郎
生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと
最近、詩を読むのだけれど、谷川俊太郎さんの「生きる」の一部を紹介するね。
当たり前な日々に、私たちは今日も生きている。
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