願いを次々に叶える霊性心[360/1000]

森に家が建つが先か、死ぬが先か。

働いて貯めた金の大半は森に消えた。わずかな生活費を残したが、税金の存在を忘れており、ここからさらにごっそりと無くなるらしい。今の私の暮らしぶりからすれば、1年は持つだろうと見当をつけていたが、けっこうがんばる必要が出てきた。これをチャンスと捉えたい。ほんとうに金がなくなったら、ほんとうに死ぬのか試してみればいい。たぶん、死ぬ前になんとかなる。そして、これはまた試練でもある。肉体を超越して、高尚な魂にほんとうに価値を見出せるか己自身を本当に試せるではないか。いざとなれば、玄米を何倍にも薄めて粥にして食べよう。そこら辺の坊さんにも引けを取らない食事だろう。断食状態となって運命は拓くかもしれないし、何なら悟りも開くかもしれない。そう考えると、本当にチャンスだと思えてくるから不思議である。

 

人間には、動物心、理性心、霊性心がある。高尚な人間こそ、霊性心で生きなければならない。

金がなくなって死ぬんじゃないかと動物心に怯えて生きるのは、動物と同じである。金がなくなることをチャンスと捉えればいいと諭す理性心は、人間の知能ゆえになせる業だと思われるが、理性は間違いだらけである。理性の考えることは「相対積極」にすぎない。

霊性心こそ「絶対積極」である。何もない。空っぽ。怖れもなければ、怖れないこともない。ただそのまま。宇宙のまま。自然のまま。私もこの状態がよく分かっていない。しかし、人間の願いが次々に叶っていくとしたら、この霊性心のおかげだろうと直感している。

天風先生は霊性心のことをこう言っている。

・ほんとうにあなた方が楽しく感じるときは、楽しい気持ちが湧いたときじゃないんだよ。ああ、楽しいなって気持ちの湧いたときはまだ第二義なの。ほんとうに楽しいときにはね、楽しいなんて気持ちが湧かないで楽しい。うれしいなって感情もまたしかり。ああ、うれしいと思ったら第二義なんだ。

・ほんとうの世界ってものは、人間の生まれたときと同じようにタブラ・ラサなんだ。幸福でもなければ、不幸福でもなければ、不健康でもなければ、また健康でもないの。

・雑念も妄念も取り除けて、本然の心の殿堂をつくってやると、そこへフウッと霊魂が安住する状態になるいう原理を応用してあの座禅っていうものは始まった。

 

そのままとか、ありのまま、という言葉が一時期かなり流行ったが、あれをそのまま曲解して、動物心に当てはめると大変なことになる。食いたいものを食う、言いたいことを言う、やりたいことをやる。これまで理性で縛られてきた欲望を、欲望のままに生きていいんだと言われれば、自分を縛ってきた厳しい人間ほど救われた気持ちになる。人間礼賛によって、これはかなり流行した。しかし、それでは動物と同じか、主人の許しがあるまでエサを我慢する犬以下ではないか。これでは人間の誇りも美学もあったものじゃない。

では禁欲的であれと言うのか、と言われるとこれもまた違う。禁欲的であるということは、理性心によって動物心を抑えつける状態である。この状態は息苦しく、どのみち長くは続かない。理性と本能の二者で考えた時、常にここでは煩悶が繰り広げられる。

 

そのまま、ありのままは、動物心も理性心も超えた、霊性心の状態を言う。私は霊性心に、宇宙の源流がそのまま流れ込んでくるようなイメージを持っている。宇宙と性質を同じにし、自覚せずとも積極的であり(絶対積極)、何も考えずとも無邪気であり、思考を経由することなく気づいたら願いが叶っているような、言葉にするのは難しいが、そんなものだと思う。運命というのも、この霊性心によって自覚されるものなんじゃないかな。

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