私たちは幸せになりたくて、幸せになろうとするけれど、「幸せになろう」とするより、「人間らしく徳を積もう」と生きた方が、結果的に幸せになれる気がする。
— とむ(原付テント生活) (@tomtombread) July 23, 2019
泥臭く生きることって、決して楽なことじゃない。
苦しいし、地味だし、汚くて、逃げ出したくなるときもある。
「今が幸せだ!」なんて、いつも胸を張って言えるわけじゃない。
だから葛藤する。
「本当にこれでいいのか」って。
「本当に、自分は上手くやっていけるのだろうか」って。
もし、そんな葛藤を抱えているのなら、私はあなたの背中を押したい。
愚直な泥臭さはいつかは報われる。
今自分の道が正しいかどうかは、胸に問うてみれば分かるはずだ、と。
苦しみの中にもまっすぐ歩んでる感覚や、自己に誠実に、徳を積んでいる実感があると思う。
それこそが、泥臭く生きることが間違っていない、何よりの証拠ではないだろうか。
迷いが口からこぼれることはあっても、心の反応はいつも正直だ。
何が善で何が恥なのか、心に問えば分かるはずだ。
1 泥臭く生きられるのなんて今だけだろ
泥臭く生きられる時間は、後から振り返った時、財産になる。
泥臭く生きられるのなんて、今だけだろ。
多分、泥臭く生きられる期間なんて、一生のうち今しかない。
愚直に生きてれば、遅かれ早かれ、望みは叶っていくから。
もちろん、今私自身も、愚直に生きてる真っ最中だから、実体験に基づいた根拠があるってわけじゃないんだけれど、そんなことを直感的に確信してる。
誠実に生きてる人間が、幸せになれないはずはないのだって。
『フォレスト・ガンプ』という映画を2度見た。
IQ知数が平均よりも低く、バカ呼ばわりされて育つ1人の男が、愚直に、誠実に、次々と偉業を成し遂げていく話。
フォレスト・ガンプを見ていると、迷いを抱えている自分がバカバカしくなる。
「迷う暇があるくらいなら、さっさと行動しろ。突き進めるところまで、突き進め。」と問い詰められる気持ちになる。
この泥臭く生きる期間が財産だと言ったのは、
貧しさの中にしか得られない豊かさがあるから。
私はいま、テントで暮らしてるのだけれど、(そろそろ2ヵ月くらいになるかな)
誰かと外で、肉を焼く機会がとても増えた。
スーパーで半額のシールの貼られた、豚バラと鶏の胸肉を買ってきて、自前のガスコンロで焼く。
星空の下、小さなフライパンで少量ずつ肉を焼くんだけれど…
それが、ほんっっっっっとうにうまいんだ。
3000円払って食べる焼き肉よりも、500円程度の肉が何故かうまい。
不思議じゃない?
けれど、これが人間だと思う。
変な表現かもしれないけれど、こんな状況で焼く肉って、ものすごく味がする。
スマホ見ながら食べるご飯って、まったく味がしないよね。
それの逆だと思ってくれたら、「味がする」の意味が分かると思う。
とにかく、本当に美味いんだ。
つまり人間は、物質的に豊かになれば、失う豊かさもある。
気づかないところで麻痺して、喜べたことが喜べなくなる。
だから、謙虚でいられる今ってすごく貴重な時期だと思う。
物事を、純粋に近い姿で感じることができる。
長い目で人生を捉えるとき、『不足の中に充足を見い出した経験』は、後の人生を必ず豊かにする。
愚直に泥臭く生きる経験が、そんなことを学ばせてくれる。
2 泥臭く生きるとは、底力を解放すること
泥臭く生きるとは、自分の中に「憤り」や「志」を持ち、愚直に進むこと。
地を這い、天に祈り、叫び、呻き、地響きを鳴らしながら、もがき進むこと。
はっきり言って、泥臭い生き方ってキレイじゃない。
乱暴に例えると、ゴミ山をあさる野良猫とか、屍肉をあさるハイエナのようなものかもしれない。
けれどそんな生き様には、命の力強さを感じる。
人間…..というより動物の底力って、逆境にしか現れない。
ぬるま湯に浸かってるときよりも、憤りを感じて「ふざけんなこの野郎」って思えてるときのほうが、何倍もの力が湧く。
ロックンロールでおなじみの内田裕也の本を読んだけれど、彼って本当に反骨精神を貫いてきたのね。
ニューヨークのハドソン川をスーツで泳いだり、嫁の樹木希林さんと拳でやり合ったり、都知事選の政権方法でロックンロールをしたり、やってることは意味が分からないんだけれど、彼の常人を超えた力の源泉ってそこにある気がする。
私は以前、アフリカ・サバンナのドキュメンタリーにハマってた時期があって、その時シマウマが捕食されるシーンに感動を覚えたの。
シマウマって本当にすごいんだ。
ライオンに捕まっても、そこで終わりじゃなくて、後ろ足で蹴ったり、暴れて噛みついたり、猛反撃する。そして、ライオンが怯んだ一瞬の隙を見て、逃げる。
結局、何が言いたいかっていうと、
- 人間って底力を持て余して生きてる
- そして「飢え」こそが、その力を解放するトリガーになる
ということ。
泥臭く生きるって、そういうことだ。
自分がまだ自覚していない力に気づいて、可能性を限りなく広げる生き方だ。
3 泥臭く生きることはダサくない。
周りの嘲笑を、真っすぐ進む力に変える。
攻撃(反骨精神)は、最大防御になる。
今の日本には、冷笑主義が蔓延ってる。
真っすぐ純粋に努力する人間を嘲笑する者や、批判的な言葉を投げかけてくる者もいる。
悲しいことに、徳を積もうとする生き方をまっとうし辛いのが、今の日本だ。
けれど少なくとも、私は泥臭く生きる人間が好き。
金銭的な快楽に身を委ねた上品(に見える)人よりも、
泥臭くて、血の匂いがする人間のほうが、よっぽど品性があるって思う。
私にも、低俗で批判的な声が届くことがあって、最初のうちはいちいち傷ついてたのだけれど、今ではすごくどうでもいいって感じるようになった。
言葉は悪いけれど、「勝手にほざいてろ。」「俺は俺を生きる。」としか思わないのね。
多分それは、『反骨精神』のおかげなんだと思う。
『攻撃は最大の防御なり』って言葉があったけれど、本当にそのとおり。
志とか、反骨心は、批判的な声を、むしろ自分を掻き立てる原動力に変えてくれる。
周りから嘲笑されても、自分を恥じる必要なんてない。
堂々と胸を張って、泥臭く生きようじゃないか。
俺もちょっと、本気出して生きるから。
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