この千日を振り返れば、厭世主義に窶れきり、幸福を嘲ったこともあった。ヒューマニズムに呑まれた幸福を、救済する力も頭脳も持たぬ落ちぶれた私は、無力のまま不幸の元へ、悪意の渦に身を委ねるしかなかった。時代を嘆き、幸福を軽蔑し、生を厭い…、冷酷な渦の底へ沈むところまで沈んでいった。死に酔った亡霊となったが、俗世間から身を離すことで隠者として生き延びた。肉体を持ちながら、疎ましい現世を忘却できる、都合のいい離れわざであった。
再び生活の地を耕さんと、悪意の奥底に新たな光を見せてくれたのが、隠遁中に出会ったトーマスマンやニーチェだった。オーストラリアをヒッチハイクで横断し、ゴールドコーストから昇る朝陽を見たあの日から、偉大な虚無を宿敵としてきた私だったが、現世を肯定しながら虚無を焼き尽くす聖火をようやく掴めた心地だった。その歓喜を忘れぬよう、543日目に「追憶の魂」の詩を綴った。「生死一閃まどろみの 生命を叩く無邪気さよ ああ美わしき魂よ 愛と希望を忘れるな」と。
「あなたにとっていちばん大切なものは何か」と問われたとき、”自分”と答えようなら恥を知るが、一人で生きることを選んでいれば、”自分”と答えていることと同じかもしれない。いま悲しみの粉が、パタパタとふるいにかけられる。今度は悪意に胃袋を食わせる代わり、自らの拳で心臓を叩いてゆこう。なんとも、温かい居心地だ。拳で一度、胸をドンと叩けば、勇気が湧き出す。もう一度、ドンと叩けば、愛情が滲み出る。力は永遠の周期のうちに眠るものだ。鼓動を失い、音を失った心臓は冷たく無力に、幸福を退けるしかなかった。今度は、力と勇気と信念と愛情とで、道々に眠っている幸福を調べていくのだ。貧乏や労苦のなかにさえ眠る、当たり前の慣習と当たり前の幸福を信じて。
ついに明日で最後。この期に及んでも駄文をしたためる。神はまだ見ているか。
2025.3.16