思考の型を使用しないでは何も考えることはできないし一行の文章も書くこともできない。[986/1000]

晴耕雨読。雪が降りしきるこの機会に、一年以上積読状態になっていたトインビーの「歴史の研究」をようやく開いた。まだ冒頭の百ページにも及ばないが、相当気合を入れなければ読み進めることができず、去年の冬、二週間かけて読破したトーマスマンの「魔の山」が再来したようである。一字一句逃さぬ覚悟で、分からぬところは分かるまで徹底的に読み返すと、翌日や翌々日には分かるようになっているという脳髄の神秘を体験した。必ず読破するという信念を持てば、難解に思われる書も突破できる。そうして本書にぶつかる初日の気概をここに綴っておくことにする。

思想それ自身が思考の型なのであり、そしていかなる歴史家も「社会」、「国家」、「教会」、「戦争」、そして「人間」といった思考の型を使用しないでは何も考えることはできないし、一行の文章も書けないからである。

真実の問題は、思考の型が存在しているか否かではなくて、それが包含しうるのは、人間的問題の全領域か、あるいはその特定の一部分でしかないかどうかにある。

蝋山政道「トインビー史学と現代の課題」

この千日投稿も、早いもので986日目である。ほんとうに時が経つのはあっという間で、何も書くことが見当たらず、それでも何かを書かなければならず、誰が読んでもおもしろくもないどうでもいいようなことを、書いては消してを繰り返していた日々も、遠い過去に過ぎ去ったというわけだ。

この手記の名を「草枕月記」と改めたのは200日を過ぎた頃だった。現代物質主義とヒューマニズムにどっぷり浸かっていた脳が、葉隠思想によっていっさん見事に叩き割られたあの日から、「人間」という新たな型を得たことが始まりだった。その日から今日に至るまで、「草枕月記」には人間と魂、生命について書きつづけた。毎日書きつづけていたことは基本的に全部同じで、「人間」という型を、ある日は三時の方角からある日は六時の方角から、何度も飽きずになぞっていただけである。

具体例を書くことを怠りがちな私は、毎日が抽象的である。代わり映えしない手記の数々に「こいつはまた同じことを言っている」と読者には見捨てられたことだろう。逆に抽象論だけでよく700日もったものだと今でこそ感心するが、次に機会があるのなら、読む人のことももう少し考えたいと思うくらいには、社会に身を挺したいと思うようにはなった。

「人間」という型を得たものの、私の持つ型は拳法でいう”一の型”のようなものだ。型を持つことで書くことはずっと容易になった。世界も少しはまともな目で見られるようになった。そして型を極めれば世界のすべてが分かるに違いないという、未知への憧れも感ずるようになった。武士道は「人間的問題の全領域」を包含していると今は信じる。トインビーの「歴史の研究」は、「社会」、「国家」、「教会」、「戦争」、と様々な型に巡り合えることを期待して読み進める。誰もが型を持っている。その型を一度手放してみるのも、いい時間になると思うのだ。1000日まで残すところ14日。きっと読み終わらないだろうが、いけるところまでいこう。

 

2025.3.3