貴賤はあっても労働の価値は揺らぐものではない[980/1000]

母から仕事はどうなったかと連絡がきた。「今日から新聞配達をしています」と伝えると「何でもよいよ。働くことが大事です。」と返信がきた。そのとおりである。いい母を持ったと涙を禁じ得ない。私は二十代半ば、働かず家に引きこもる時期を二年近く過ごした。労働には不条理が付きもので、苦労は当然かかるものであるが、心の痛みを厭うて内にこもったところで、安楽より虚しさがまさるのである。国にも社会にも、誰にも尽くせないことは、自己存在の価値をかぎりなく貶める。労働の不条理も苦しみも、それこそが人間にとって有難いものであったと、情けない青年は酷く痛感したのである。

 

そりゃ確かに、国力の根幹にかかわる仕事は立派であるし、能力を磨き上げた人間は人様から尊敬される仕事に就くことができる。己もそうありたいと高い志を持つことは人間として然るべき動機である。だが一方で、貴賤はあっても労働の価値は揺らぐものではないと、仕事を持たなかった私は感じるのである。賃金の発生に伴う社会的責任と、規律や命令、服従や献身といったエネルギーに身を擲つこと、自己存在と文明が交わる交点として、労働の有無には天と地ほどの開きがあるのである。

今朝は2時過ぎに起きて新聞配達に出かけたが、私の生命は労働の歓びに満ち溢れていた。たかが新聞配達、大した金になるわけでもない。それでも労働によって生命が磨き上げられる感覚に、私は飢えつづけてきたのである。

 

家をつくったときに出た端材で、鳥の巣箱を4つこしらえた。春に向けてシジュウカラやヤマガラが入ってくれることを楽しみにしている。家づくりのおかげである程度は手慣れたようで、作るのはまったく苦にならない。一個500円で商売にならないかと妄想を膨らます、平穏な森の生活である。

2025.2.25