旅立前に不安を抱える友へ
旅がはじまってしまえば、風は流れはじめます。流れた風は旅人の背中を温め、力まずとも世界が勝手にわれわれを運び、われわれを歓迎してくれるようになります。そうした異邦の風が心情の細部に溶け合って、自分がかつて知りえなかった美わしい涙が零れるおちる瞬間に、旅人の幸福があるのではないでしょうか。つまり、旅立前の心労は、既に旅の土壌となりつつあり、この土壌に花が咲くものだと思うのです。
実は昨晩、僕もインド行きを想像しては、吐きそうになっていました。わざわざ安全で快適な今の地を抜け出して、命を危険にさらしに行く必要がどこにありましょう。それもなけなしの金を払ってやるのですから馬鹿者です。
いっそインド行きなど辞めてしまい、南の穏やかな島に逃亡してみようかとも考えました。何も苦痛に顔を歪めながら旅をはじめることはない。インド行きの航空券など破り捨てて、南の温かい海辺でのんびり過ごしても何が悪いのだと、恥ずかしながら甘い妄想に耽りました。
きっと旅に惹かれるあなたであれば、既に読まれたことがあるかもしれませんが、「深夜特急」を書いた沢木幸太郎さんも、旅の前に尻込みするのは自然のことだとおっしゃっていました。臆病風に吹かれるのはちゃんと生活に根を下ろしている人間ほど起こりうるだと思います。そして、行くか行くまいか、この期に及んで二の足を踏んでしまうのも、いよいよ夢が現実になろうとしている合図なのでしょう。
嵐の中、俺は平気だと踏ん張るストア派と、まあ濡れてもいいかと緊張を解くエピクロス派は、どちらも自然と心が合一することを目的としました。
旅人には「何とかなるさ」精神のエピクロス派の人間が多い印象を受けますが、今日の僕はどちらかというとストア的です。旅を試みる人間がはじめに遭遇する神の試練に対し、こんなものはへっちゃらだ、笑って跳ねのけてやれ!と気概を紡ぎ出そうとしています。そして有難いことに、今日の僕の傍には同じ境遇の友がいます。地上の人間は、こうした神の試練に立ち向かうために、互いを鼓舞しあう必要があるのではないでしょうか。
沢木幸太郎さんは、若き旅人にメッセージを残しています。きっと、旅立ちを控えた人間に勇気を与えてくれると思いますので、ぜひ紹介させてください。
「恐れずに、しかし気をつけて。」
まずは恐れることなく旅に出ればいい。しかし、何でもかんでも投げやりになるのではなく、気をつけるべきことはちゃんと気をつけること。これが、旅立ちを控えた人間にとって、もっともふさわしい心得に思われます。恐れずに、しかし気をつけて、そしてあとは天に身を委ねるしかないでしょう。
昨晩、夢のなかで、中島みゆきさんの「宙船」の詩がおぼろげに蘇りました。不思議なタイミングですが、まさに今日に相応しい一曲です。もしよければ、きっと旅立に向けて、全身をゾクゾク奮い立たせることができると思うので、是非聴いてみてください。
書き終わったら、すっかり空も晴れました。春がいまだ掬いきれない冷ややかな空気と、傾きかけた橙の陽がとても綺麗です。
2024.2.23
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