かつて私は仮にも教育者を志した身であった。熱心な若者によく見られる情熱を、自由と平等の仮面をかぶった「革新的な教育」に捧げようと考えた。当ブログも、ほんとうの最初期にさかのぼれば教育論が展開されている。当時の論調をスローガン風にあらわせば「自己肯定感を高める教育を」である。これは、今日においても廃れることのない教育だ。その内実が空虚であると暴露するのはもちろんご法度である。
かといって、戦前の保守的な教育は現代には少し素朴すぎるかもしれない。私は、森の隠遁生活を経たいま、真の教育とは脳髄を強化することだと考えるようになった。脳髄を強くするあらゆるものは教育的であり、脳髄を弱くするあらゆるものは非教育的であると考える。
“道徳”と”道徳的”が別物であるように、”教育”と”教育的”は同じではない。道徳と教育は仲がいいが、道徳と教育的は必ずしもそうではない。そして、道徳的であることと、教育的であることは、教育と道徳の外側に突き抜けていく先にある。それゆえ脳髄の力を欲する。教育的なものは野蛮である。必ずしも安全ではない。それゆえ可愛い子には旅をさせる。
ランボオは「地獄の季節」のなかで、”道徳は脳髄の衰弱だ”と言う。ソローは「森の生活」のなかで、隣人が善だと信じるものを魂の奥底で悪だと信じた。なにも私は善を否定し悪徳を肯定したいわけではないが、私もまた恥じるのである。安逸に身を委ね、善良に振る舞うことを。
***
電脳空間がもたらした情報社会は、進歩と平等の賜物である。世界中の情報がどこにいても手に入ることは、手放しに喜んでいいことに思われる。だが、あえて逆に問うてみよう。
果たして今朝頭に詰め込んだ情報は、今日の生活にどれほど必要だろう。今日の生活をどれほど豊かにするだろう。所詮それらは「散漫化した噂話」にすぎないのではなかろうか。町の噂話が散漫となり、規模を大きくし国の単位に変わっただけではなかろうか。散漫は散漫をよび、空模様すら自分の五感で分からなくなってしまったのではないのか。
建設的な仮面をかぶり、何でもかんでも知りたがるが、何も知ろうとしない行為ではないのか。もしくは、何でもかんでも知ったつもりになっているが、実は何も知れていない行為ではないのか。近道をしているようで、実は無力なゆえに壮大な遠回りをしているのではないのか。
電脳空間に善悪はない。だが、電脳空間を前に人間が無力化されていく光景は、いつみても悲惨だ。悲しく、惨めだ。私は小屋に迷い込んでくる小鳥や、森に降り注ぐ不規則な暁光のうちに、智を深めたいと思う古い人間である。
2024.2.22
コメントを残す