森で素朴な暮らしをしようと思ったきっかけ一つに、ソローの「森の生活」がある。ソローはウォールデン湖畔の森の中に丸太小屋を建て、2年間、自然と一体になった暮らしをした。現代と距離を置いた隠遁生活であり、四季の移ろいや動植物の生態を愉しみながら、素朴な隣人と付き合い、読書と思索の日々をおくった。
これをはじめて読んだのは、20代半ばの八ヶ岳の森のなかだった。当時のわたしは、極寒のなか皿洗いの仕事をしながら、隠者じみたテント生活をしていた。哲学とは原点を問いただし、無駄を省くことである。「家とは?」「労働とは?」「人間とは?」「生きるとは?」「食うとは?」こうした問いを繰り返すうちに、文明生活に無駄があることを痛感していた私は、最小限の暮らしをするソローに深く感化されたのだ。
たいがいの人間は、比較的自由なこの国においてさえ、単なる無知と誤解とからして、人生の人為的な苦労とよけいな原始的な労働とに忙殺されて、その最も美しい果実をもぐことができないのである。
生きていくために必要な労働は、実はさほど多くない。私自身、森で生活するうちに、生きるのにいくら金が必要が計算してみた。そして、1ヵ月に約36,000円あれば暮らしに必要な金を賄えることを知った。30,000円は国に義務として支払う税金であり、6,000円が食費である。食費の内訳は、玄米5kg2,000円、残りの4,000円で野菜と肉をバランスよくとる。
苦行僧のような食生活を想像される方もいるかもしれないが、1日1食しか食べないこともあるが、実はほとんど毎日肉を食べており、私自身は贅沢すぎると感じていたくらいである。これは私の持論だが、食事の満足(≒健康)度は、”いかに玄米をうまく沢山食べられるか”の一点にかかっている。いくら、主菜副菜が充実していても、相対的に玄米を食べる分量が少なくなれば、派手で豊富に思える食事にも、不足感が残る。逆に、たとえおかずが少なくとも、宮沢賢治の”雨ニモマケズ”の詩のように、「味噌と少しの野菜」によって玄米を沢山食べることができれば、食後の充足感は大きい。さすがに詩のとおり「1日に玄米4合」食べるには、身体がヘロヘロになるまで労働しなければならないし、1日2食に分けなければなるまい。
ある人々は「勤勉」であり、働くことを、それ自身のゆえに、あるいはたぶん、それがもっと悪いことからかれらをふせぐがゆえに、愛するようである。そういう人々にもわたしはさしあたり何にもいうことはない。今もっているようりもっと多くの閑暇ができたらどうしたらよいかわからないというような人々には今の二倍はたらいたらよいと忠告したい―かれらが自らの身の代金を支払い自由の証書を手に入れるまで。
1日に8,000円稼ごうとすれば、5日働けば40,000円だ。つまり、1ヵ月のうち5日間働けば、残りの26日間は何もしなくても生きていけることになる。人それぞれ、必要な額は異なろうが、それでも同じ人間である以上、この水準から大きく外れることはないだろう。ソローも言うが、余暇をうまく使うことができるのなら、こうした隠者の暮らしに大きな幸福を感じるはずだ。
無論、ここでは労働の持つ意義を考慮していない。私自身、労働によって築き上げられる精神性に敬意を表するし、国のために働くことは立派だと考える保守的な人間である。願わくば、私自身もそのように生きたいものだ。だがもし、「日常」から離れざるを得なくなったら森に駆けこむ選択肢は残されているということだ。
2024.2.18
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