社会に慣れ親しむほど、雄々しさを放棄してしまうことがある。権力者に首を差し出せと言われて、素直に首を差し出すやつがいれば、保守的な人間は立派な忠義だと褒め称えるかもしれない。だが、「うるせえ、ふざけんな」と抗う選択肢だって俺達にはあるんだぜ。
右も左も関係ない。自己を肯定するとかしないとか、そんなちっぽけな話でもない。ただ、若かりし頃を思い出してみるんだ。目の前に対面する世界のすべてに悪態をつき、今よりもずっと威勢がよかったんじゃないのか。
何も反抗的であれと言いたいのではない。だが、社会を弁えたつもりになって、あるべきはずの雄々しさを忘れてやしないかい。未来を憂えば、不安の種など腐るほど湧いてくる。そんなものにいちいち構ってたら、幻ばかりでかくなって、気づいたらどんどん小人になっていくぞ。
不安の種なぞ、虚勢で吹き飛ばしちまえばいいんだ。「うるせえ、そんなこと構うもんか」で終わりだ。虚勢でいいんだ。思考停止ではなく、思考放棄だ。つまらぬこと考えて己の神経を摩耗させるくらいなら、大脳を木っ端にしちまって、空の海に放り投げちまえばいいんだ。
雄々しさとは、己と神との契約だ。雄々しさは、いつも必ず、自分と大きな存在との約束に生じる。己と神との関係に、どうして他人の言葉の入り込む余地があろう。見上げよ、広漠たる空を。眩しく輝く太陽を。思考放棄といったが、何も考えることを辞めろというのではない。物を考えるにしても、心持を前に向けてからでも、遅くはなかろうという話だ。
まずは不良になってみろ。こんなこと、どうってことないと、やせ我慢に虚勢を張ることだ。己の言葉に気をつけて、臆病風を一ミリもゆるさないことだ。さあ、こんなもの朝飯前だと気を強くもってみろ。
誠に不思議なことに、俺は胃の痛みすら和らいできた。いかにも、「我」とは37兆個の細胞を束ねる将軍だ。己の気が奮起すれば、身体中の細胞の士気もぐんぐん上がっていく。押せ、押せ。こうして病ですら吹き飛ばせるのだ。身体の苦痛も、心の痛みも、克服しちまえばへっちゃらだ。
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私はよく、夢のなかで支離滅裂なことを悟った気持ちになったりする。それを翌朝、忘れる前に紙に書きとめる。今朝の言葉も、ここに書き残しておこう。
「現存在とは、孤独である。孤独とは、在り方である。ゆえに、寂しく、出会いに憧れて、人間となったのである。」
2024.2.12
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