淡い空泳ぐ、金色の雲。群れをはぐれた、小鳥の鳴き声。冷たい風を羽ばたいて、どこまでも飛んでいく。
生きることはどうしてこうも哀しいのだろう。分かっている。センチメンタルな言葉はお預けだと約束しただろう。冬を耐え忍ぶ木の葉にそそのかされて、いたずらに呟いてみたまでだ。抱きしめたくなるような空の下では、少しくらいの涙は赦されよう。
空の下に家がある。空の向こうが家である。重力に阻まれて、飛ぶことを諦めた。哀しみの地に足つけて、空を見上げて涙する。
腹空かせたまま、凍え死ぬ。これこそ己の本望だ。腹空かせて凍えるほどに、己の命は賦活する。道端で倒れていたら、温かいスープを恵んでおくれ。両の手で椀を持ち、冷たい手を温めてから、一息に飲み干そう。乞食じみた惨めさも、寒さのない世界よりはましだろう。だが、できることなら、己が温かいスープを恵んでやれたら。堕ちぶれた己にも、それくらいのもてなしはできるはずだ。
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環境は大きな人間だろうか。性格があり習慣がある。われわれ個人は、自分の性格や慣習を、自分自身で決めていると思っているが、実は大きな環境の人格を形成するために、一役買っているのだろう。環境は生命に負荷を与える。生命は、生存のために負荷を清算する。その清算の過程、もしくは結果として、性格や慣習、病気は形成される。これは適応の結果である。
生きているかぎり、常に何かしらの負荷に晒されつづけている。これが老いだ。アンチエイジングなどという言葉は気に入らないが、環境の負荷に負けじとぶつかっていくことが、老いに対する生命的な処方箋であろう。
もし、われわれが共有できる、同じ苦しみがあるとすれば、生きることそのものに対する苦しみだ。苦しみを背負わない人間は一人もいない。ただ、負荷に跳ね返され、屈辱を味わっているか、負荷を乗り越えて、誇りを得ているかの違いではなかろうか。
そして、今日の私が言葉にして価値のあることは、「負けるな」の一言である。生を与えられし苦悩の友に、この言葉以外、何が言えるだろう。天よ。力を与えてくれ。前に進んで行く勇気を与えてくれ。
2024.2.6
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