生活のある者は、「日」の単位で旅をする。少しがんばって休みを捻出できたときにかぎって、「週」の単位で冒険する。生活から距離を置いた者は「月」の単位で旅をする。私が東南アジアを貧乏周遊したときも、オーストラリアをヒッチハイクで横断したときも、一か月の間に行われたものだ。
だが、世の中には「日」でも「週」でもなく、「年」の単位で旅をする者もいる。3年とか5年とか、生活者からしてみれば、にわかに信じがたいかもしれないが、こうした大きな単位で、放浪をする者が世の中には少なからずいる。
信じられないのも無理はない。私もまた旅の最中、相部屋のドミトリーで、こうした旅人に幾度も遭遇したが、こんな生き方が赦されるものかと、はじめは度肝を抜かれたのだ。
私のなかの”常識”では、1カ月や2カ月の旅、長くとも半年くらいの旅であれば、「可愛い子には旅をさせよ」の精神で、親や先生にも背中を叩いてもらえる感覚がある。だが、3年の長さにもなれば、社会に対して無責任である期間が長すぎるようで、「もう好きにしろ」と社会の縁から勘当されてしまう感覚があったのだ。
バックパッカーが集う安宿のドリトリーに泊まったことのある者は、ヒッピー的な社会から解放された空気を少なからず感じたことがあるだろう。自由と人間愛を渇望し、社会の束縛からは解き放たれ、自然的な食べ物や、ボーダレスに自然のままであることを好むのだ。
だが、大人から非難されることのない放縦に身を委ねながら、解放感の根底に潜む虚無から目を背けるために、クスリに我を忘れたり、同じ仲間と戯れて安堵を得ようとするのは、闇に葬られがちな側面である。
自由と解放を掲げて旅に出たものの、自由の果てに何もないことを知って不自由をおぼえるも、引き返せない所まできてしまった。「風」を象徴するはずので旅であるが、密室に閉じこめられれば、風も沈殿した鬱気となり、文字どおり「沼」と化すのである。
ヒッピーたちが放っている饐えた臭いとは、長く旅をしていることからくる無責任さから生じます。彼はただ通過するだけの人です。今日この国にいても明日にはもう隣の国に入ってしまうのです。どの国にも、人々にも、まったく責任を負わないで日を送ることができてしまいます。しかし、もちろんそれは旅の恥は掻き捨てといった類の無責任さとは違います。その無責任さの裏側には深い虚無の穴が空いているのです。深い虚無、それは場合によっては自分自身の命をすら無関心にさせてしまうほどの虚無です。
「深夜特急」沢木耕太郎
森の隠遁生活から一度、文明生活に降りてきて、私自身、次を考えなくてはならない。もう一度、森に帰るのか。何か働き先を見つけるか。それとも、この正月に大工仕事で稼いだ小銭で異国の旅に出るのか。
ずっと行きたかったインドに行くなら今かもしれない、と思いながら、かつて旅の情熱に巣食う、虚無を思い出した。オーストラリア横断を成し遂げたあと、美しい日の出を眺めながら、さてこれからどうしようかと、生きることに静かに絶望した、あの虚無。私自身、自由に焦がれながらも、ヒッピーにはなりきれない体質である。
信仰を忘れないことだ、と智慧が言う。われわれが孤立するのは、物質に敗れ、生きることが自己目的となり、天から切り離されるときだ。ここを忘れなければきっと大丈夫だ。旅をするにしても、放縦の旅ではなく、自由の旅をしたいと思う。この境界は、何だろう。本当に不思議だけれど、旅への憧れが増すほどに、生活への憧れも増すのである。
2024.1.17
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