涙が滞れば、無気力に屈しそうになる。
「素朴な水で胸奥を洗うことだ。」と大いなる智慧は言う。素朴な慣習を愛しているか。月を見上げること、言葉を綴ること、夜道を歩くこと、白湯をゆっくり胃に流し込むこと、ひとつずつあげていけば、きりがない。田舎のお婆ちゃんを思い出す。胸のわだかまりは解けて、涙は流れてゆく。
悲哀はすべて、天に還ろう。物事と慣習のなかに、神秘を見つけて。
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私はエネルギーを賛美する。
無気力に屈するより、力強い涙を流すことを願う。無気力に楽をするより、力強く苦しむことを求める。無気力な幸福に身を委ねるより、力強い不幸に臓腑を焼かれることを願う。
天に祈るは、われわれが無気力から救われることだ。力強い未来へ歩みをすすめるよう、今日に力が与えられることだ。力よ、注がれよ。涙よ、流されよ。ええ、すべては今日、いまこの瞬間に。力をもって生命の奥底を、鼓舞するために。胸奥に滞る涙に、温かい息吹を注ぐために。
いつまでも訪れることのない未来ではなく、常にここにありつづける現在に、力よ、与えられよ。
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エゴイズムという言葉には、あまり良い響きがない。しかし、自我を否定した空洞に、燃え上がるマグマの源泉はあるだろうか。同じエゴイズムでも、愛国心は、国家、民族のエゴイズムだ。世界平和は、宇宙のエゴイズムだ。信仰は、神聖なエゴイズムだ。
エゴイズムでも、力を信じて、大きく大きく、広漠な大空と、深淵な宇宙にむかっていくことだ。自我を否定しながら肯定し、現世を否定しながら肯定する。
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現世の哀しさに閉じこめられて。ああ、一人だ。生きることは、なんて哀しいことなんだろう。みんな死んでいく。わたしたちは、なんのために現象界へやってきたのだ。出会うためだろうか。泡沫のように消えてなくなる、この儚い生のうえにいて、互いの手を取り合い、温もりを分かち合うために、生まれてきたのだろうか。
わたしはいま、哀しくてしかたがない。人間の生に。人間の死に。
2024.1.8
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