悲哀は高尚だ。なぜなら、悲哀は人間に祈りを要求するからである。天に身を捧ぐことを要求するからである。
明るいこと、楽しいことを、われわれは人に話す。明るいこと、楽しいことは、現世に帰る場所がある。だが、悲哀には帰る場所がない。悲哀を人に話したとしても、苦しみを人に分かってもらえることはない。われわれは肉体と肉体との隔たりを一層感じ、孤独の淵におとされる。だれもいない涙の谷で、われわれは天に祈るしかない。胸のうちの悲しみを、この痛みを、心のすべてを天に委ねることによって、身は浄化される。
こうした理由から悲哀は人間を高尚にする。悲しみに沈む人間の敬虔さは、涙の谷で発せられた祈りの芳香である。
祈りとは、一見無力のうちから生じる行いのように思われる。打ちひしがれた現実、自分ではどうすることもできぬ感情に対して、天に身を委ね、救いを願望する。たしかにこれは、無力である。だが、私が生命的な悪と認識している「感情の無力」や「無気力」とはまったく違うものだ。
祈りは、力によって生まれる無力である。換言すれば、死の原理によって生まれる無力である。世界の不条理に対して小さな生命に絞り出される最後の希望である。ドストエフスキー「罪と罰」に登場する、祈りの結晶のような女性にソーニャという人物がいる。彼女に感じるのは、断じて無気力なんかではなく、生命の力強さである。生命力のかぎりを尽くして現実にぶつかり、それでも生きようとする生命の意志が天に昇るのである。これが祈りである。
クリスマスに教会のミサに参加したとき、もらった機関紙に聖イグナティオの祈りの言葉が載っていた。それにはこう書いてある。
「主よ、私の自由をあなたにささげます。私の記憶、知恵、意志を受け入れてください。私のものはすべてあなたからのものです。今、すべてをささげ、み旨にゆだねます。」
有機生物に宿る意志、人間の脳髄から発生する知性、われわれのすべての喜びも哀しみも、無から生じた一現象であり、すべては再び無へと還っていくものだ。それらを引きとめる個性とは、不完全な物質が生んだ、不合理な「生」への執着によっておこるにちがいない。
何が言いたいか、つまりこうだ。悲哀を抱える人間は、天へ解き放て。悲哀だけでなく、己のすべてを捧げるように。意志も記憶も知恵も捧げるように。部分ではなく全体を、そうだ、全体をささげるのだ。
私は祈りのある人生をおくりたい。祈りのある人間でいたい。生命力を奮起させること。現実にすべてを出し切り、そのまま天へ突き抜けること。
2024.1.1
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