隠遁生活を切り上げて、はじめに降り寄った場所は教会である。昨年のクリスマス、諏訪湖のそばにある教会のミサに参加してから、ちょうど一年が経った。今年も同じ教会のミサに参加させてもらうことにしたのだ。
はじめに一言添えておくが、私はクリスチャンではない。それでもミサに参加するのは、信仰を重んずる点、隠遁中も世話になった数々のキリスト教徒の偉人たちの魂に触れるためである。西洋文学をよく読むこともあって、キリスト教には他宗教以上に親しみを抱いている。
昨年と同じ、左後方の席に座った。私の記憶が正しければ、前に腰かけている老婦人は、去年もそこに座っていた。銀色と灰色の織り交ざったきれいなパーマは、いかにも年齢に相応しい品の扱い方を心得ているように思われた。後々、聖体拝領のための、ぶとう酒とパン(これはキリストの血と肉体を意味する)を奉納するために、参列者の間をとおって神父さんに奉納していたことを思うと、この老婦人は、信者のなかでも何かしらの資格ある立場、少なくとも、一般信者とは一線を画する立場にあるようであった。
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ミサの工程の詳細は、去年も述べたことだし、省くとしよう。今年は、去年と異なり、はじめて参加した私に世話をする付き人はつかなかった。「ゆえに」と言っては失礼だが、斉唱や文句を捧げるための箇所を、あちこち行ったり来たりする、まどろっこしい手続きからは解放された。歌う箇所が分からなければ、敬虔な姿勢で黙想をし、祈りを捧げるように歌に聞き入ることができた。
ああ、聖歌はあまりにも美しかった。参列者の歌声も、パイプオルガンもほんとうに素晴らしく、私は何度、あふれ出そうとする涙をこらえただろう。ここに、その素朴な歌詞を記したい。あまりにも感動したため、聖歌集を返す前に、詩を書き写したのだ。曲は「しずけさ」という。
静けさ真夜中 貧しうまや
神のひとり子は み母の胸に
眠りたもう やすらかに
静けさ真夜中 星はひかり
羊飼いたちは うまやに急ぐ
空にひびく 天使のうた
私はこの歌に出会えただけでも、教会に足を運んで良かったと思えた。
また、別の歌では、「グロリア・イン・エクチェルシス・デオ」と皆が歌うところも、胸奥が洗われるように美しかった。この高貴な響きは何を意味するのだろうと思って、これも書きしるすことにした。意味は、「天のいと高きところには神に栄光あれ」というものらしい。
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神父さんは去年と同じ方であった。そして、神父さんの説教が、私の右耳から左耳へ抜けていってしまうことも、去年と同じであった。
説教、これは人間という物質が、言葉にならない非物質領域を、言葉という物質を使って、説明しようと試みることだ。これが、キリスト教的解釈、もっと言えば、神父さん的解釈も間に挟まって、なされるわけである。
ゆえに、我と汝のような、純粋の自己と神との対話、純粋な信仰状態と比べたら、低俗なものに堕してしまう。これは、説教の性質上、仕方ないことかもしれない。神父さんの説教の時間が、ミサ全体を通しても、もっとも物質的な不透明な時間になる。
説教をする神父さんも、当然それを心得ているだろうし、実際、説教中に言葉を詰まらせて、言葉という物質障壁のまえに、屈されている場面も見受けられた。それに対し、不甲斐ないことを恥じている様子であったが、非物質と物質を繋ぐ、この崇高の末端の一部を担うのが、彼らの仕事なのだろう。
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物質、非物質の話をもう少しすれば、詩と音楽は、われわれの存在を流体に近づけるもの、もしくは、詩と歌それ自体が、かぎりなく流体なものと言える。なぜ、われわれは音楽や詩に涙を流すのか。それは、われわれの頭に凝り固まったもの、いわば物質化したものが、キリスト教の言葉を借りれば、精霊の力によって、流体たる非物質の状態に昇華されるからである。
低次な状態から、高次な状態へ。つまり、物質たるわれわれの堕した状態が、救われるのである。これは、ショーペンハウアーの哲学をかじった私は感覚的に分かるところがある。物質とは非物質の堕落である。現象とは非現象の堕落であると。そして、今日の死語である「堕落」という概念が、いかにわれわれの体内においても、日常茶飯事に起きているかと。
さて、明日のクリスマス当日のミサも参加する予定なので、今日書ききれなかったことは、明日にまとめて書きたい。今日はとにかく、聖歌の美しさに心を洗われたことを書きしるしておけば、私としては不足がない。この素朴な「しずけさ」を歌を響かせ、クリスマスの床につこう。
2023.12.24
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