哲学の日々がつづく。
現象界の創造主であるデミウルゴスの、世界創造の意図につづき、もう一つ隠遁生活をとおして考えているのは「時間」である。
ニーチェのツァラトゥストラの中で、「時間は曲線だ」と言う重力の魔に対し、ツァラトゥストラは「そう安直に言うな」と怒りをあらわにしている。これはつまり、時間の曲線運動について、安易に結論を急ぐなということである。時間は曲線だ、というのは簡単であるが、ここは慎重にじっくり向き合う必要がある。
時間の円環運動をわかりづらくしてるのが、西暦であると私は考えている。「20xx年xx月xx日」という形式をみれば、時間とは蓄積され、今日のわれわれは、過去の時間の末端にいる進歩的な存在だと認識される。
しかし、われわれが地球の球体に足をつけている事実を考えてみたらどうだろう。われわれは地球を歩くとき、地球の球を自覚せず、平坦な大地を歩いている。しかし、厳密にはわれわれが歩いているのは壮大な球体の上であり、われわれの存在が小さすぎて、この巨大なスケールを認識できないというだけのことだ。
これと同じことが、人類の進歩に思われる「時間」にも言えることではなかろうか。つまり、前に進んでいるようで、実は円環を沿うているのであり、文明の終焉とともに、円環は完了するのだ。
私は森のなかで生活している。森のスケールであれば、時間の円環運動を私にもかろうじて感じられる。四季に応じて、木々の葉は、枯れ落ち、大地の栄養となり、それによって木は大きくなる。木が伸びていくのは、時間の進歩と感じられる唯一の現象に思われるが、これも十年百年の単位で見れば、嵐に吹かれて倒木し、虫に食われて腐って大地へと還っていく。つまり、大きな大きな円環のなかにある。
無機物、とりわけ、プラスチックや核のように、自然に還元されない物質を人類は生み出した。つまり、円環に逆らい、永遠の領域に挑戦しようとした。これは大地に対する冒とくに違いない。しかし、あくまで大地の倫理に対する違反であって、現象界の創造主であるデミウルゴスからしれみれば、人間をやんちゃ坊主くらいにしか思っていないかもしれない。
なぜなら、われわれは創造主に与えられた材料をいじくりまわして遊んでいるにすぎないからだ。子供がおもちゃを分解し、拳銃を作りだしてしまたようなものではあるまいか。超地上的な力、非現象的な力をわれわれは知り尽くせないし、万能の力をもつデミウルゴスが、たかが人間の”大地に対する倫理違反”に、永遠の摂理を翻弄されるとも思われない。
つまり、こうした大地に還元されない物質でさえ、われわれの認識に遠く及ばない、非常に大きなスケール、非常に大きな円環のなかにおいては、やはり無に帰していくのではないかとも想像できるのだ。
だが、ここまで考えを飛躍させれば、虚無主義とも紙一重になる。デミウルゴスによる現象界の創造意図を考えさせられる神秘主義と、一点で重なりそうだ。雑なしめくくりになるが、こうした時間の円環も、デミウルゴスの世界創造の意図も、人生愛、人間愛、世界愛と通ずれば、嬉しいと思うのである。
2023.12.14
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