ああ、幸福よ。既に成就している幸福のなかで、どうして幸福のために生きられよう。
ああ、自由よ。既に成就している自由のなかで、どうしてこれ以上自由を欲せよう。
幸福と自由が連れだした生の倦怠、倦怠の連れである生の不安、これに耐えられぬために、既に成就した幸福と自由をいまだ未完であるといわんばかりに、大義に掲げて、進歩に邁進しているだけではないのか。既に成就しているから、「誰かを幸せにするために」と謳う企業活動の数々は、胡散臭くなっているのではないのか。
われわれの生活は、物に満ちた。働けない人間にさえ、生活保護によって国から金が支給される。民主主義は成就した。いまや、成人した男女のすべてが投票権を持つ。暴君の殿様のために、年貢を納められないからと言って、身の自由を奪われ、不当な体罰を喰らうこともない。
幸福と自由は既に満ちた。それを信じられないのは、全体と個人の相克のためではないのか。しかし、他人との比較を満つ満たぬの原理とするのなら、これを貪欲といわずしてなんといおう。もっとも、社会は無限経済成長の名の下、そんなおとがめは決してしない。欲望を味方につければ、進歩に邁進できるからだ。そうして成就された、幸福と自由の国にいながら、飽くことなき幻想を追う。
全体と個人の相克に生きるのではなく、自己と自己超越において生きることが、自由主義、個人主義、民主主義の原則だったはずだ。それを忘れてしまえば、幸福はどれだけ追っても影のように逃げていくし、器を必要とする自由は、地に水のように流れおちていく。
宇宙と自己との関係は孤独である。ただし、そこに立ってしまえば、今日ほど恵まれた時代はないといえる。パトリックヘンリーが「われに自由を与えよ、しからずんば死を」と勇み、血を流して自由を勝ち取ったように、今日のわれわれは先人の遺産の上に立つ。自己と自己超越における、自己との戦いは、いつの世も義務であった。
いつもは反時代的なことを言葉にすることが多いが、今日は時代を喜びたい。今日ほど、恵まれた時代はなかったと。そして、われわれに必要なのは幸福ではない。自由でもない。精神であり、貧しさであり、清らかさであり、高貴であり、孤独であり、命令服従であり、規律であり、秩序であり、形式であり、信仰だ。断じて、感謝の心でも、笑顔でもない。それらは人間として大事なことに違いないが、あくまでも、幸福の結果として、自ずと生じるものだ。
笑えば幸福になるという。ああ、だが、泣きたい時は、泣かれよ。悲しみの底から、精神を紡ぎ出したらよろしい。されば時代が自ずと実りをこぼすのだ。既に成就している実りを授かるのは、己の態度次第だ。
2023.12.7
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