どうも頭のなかに小人が住み着いた。日夜乱痴気騒ぎで、読書もまともにできやしない。堕落とは悪意にはじまり、善意に終わるものではなかったのか。つい先日、詩作をはじめる前には、悪意の底から善意を掘り出したように思われた。
人間を悪意に引きずり込む死に神も、ほんとうに霞のない命しか刈り取ることができず、さもなくば、われわれは死に神の手助けを借りながら、悪意の底から善意を探すのである。
私はそうして淪落に終止符を打った。しかし、いまだ悪意に捕らわれる魂をみると、あのときにわき溢れる希望は何だったのかと、ふたたび怖くなる瞬間があるのだ。
「俺は手垢に塗れた本を詰め込もう。あの偉大な詩人の言葉を胸に叩き込もう。『愛と希望を忘れるな』」
これは没作となった詩の一句だけれど、悪意を放浪する人間は、愛と希望を忘れないことを胸に叩き込んで、戦い続けるしかないのだろう。悪意の底に潜り込み、その深淵に埋もれている愛と魂の涙を拾い上げるのだ。
そして、昨日も書いたように、深く潜るほど、悪に支配されている心は孤独を感じ、心は蝕まれていく。ここに、人間の信じる強さが試されるのだ。ゆえに、戦いながら耐える。悪意に耐え、その深みから温かいものを掘り出すのだ。
ああ、私がこう言葉にしてみたのも、己を支配する悪意の怖ろしさを、紙上に引き出してみたいがためにすぎない。
私が悪意に与する、民主主義の敵ではないか、という怖れである。進歩を憎み、人間を憎み、現世を憎み、魂の価値と神秘だけしか愛せない人間ではないかという怖れ。そして、この怖れを生み出す根源が、虚無の深い絶望と、その苦痛に対する屈辱的な悲憤。
いや、ここでこそ耐えるのだ。悪意の底でこそ、「愛と希望を忘れるな」じゃないか。ああ、人間とは。
2023.12.1
コメントを残す