夢のひとつを生きているにすぎない[516/1000]

私はしばしば、夢と現実との違いは、そう大きなものではないという感覚におそわれる。つまり、この現実とは「さめない夢」なのであって、魂が肉体をとおして、一つの夢を見ているにすぎないという感覚である。

 

昨晩の夢は、妙に現実感があった。馬に乗って旅をする夢だ。鞍もつけず、背中にまたがると、馬の毛並みと背骨の突起が感じられた。手綱はないが、私は馬と深い信頼関係にあり、信ずればそのように馬は操れるようだった。背中をポンポンと叩くと歩き出し、次第に速くなると、時速30キロのスピードでアスファルト上を駆けていく。

後ろ足の蹄がアスファルトを蹴り、前足に全体重が乗り移る。前足は踏ん張る。馬は前後左右に揺れる。こうした感覚が妙に現実感があって、どこまでもこの馬と駆けていきたいと思ったのだ。

 

夢の話はこれくらいにしよう。もし私の霊魂が、誰かの肉体として目覚めたら、疑うことなく、その人間の記憶をたどり、その人間を我が人生と信じ、その人間を生きるだろうと思う。意識は目ざめるや否や、すぐに肉体と結合し、肉体(脳)の記憶を自分だと信じ込むのだから、霊魂は肉体の脳髄に支配されっぱなしだ。

 

では、今生きている自分が、自分であると、どうして確信をもっていえよう?

「昨日を生きた。そして今日も生きる。」こう言えそうだが、連続した記憶は、あくまで脳髄の記憶なのであって、霊魂は肉体に宿り、初めて自己を認識できるわけだから、ずっと同じ霊魂をもっていることの証明にはなるまい。つまり、われわれはずっと、変わらない自分を生きていると、肉体に思い込まされているだけかもしれないのである。

 

***

 

陽が沈み、薄暗くなりかけた森小屋で隠遁生活をしている。これが「私」にとって今の現実であるが、誰かにとっては夢にちがいない。逆に誰かにとっての現実も、私にとっては夢なのである。夢は時間を超え、肉体を超え、空間を超える。その中でも、今ここにある現実を、現実だと感じ、その確信が揺るぎないものとなるのは、肉体の仕業であろうし、肉体がそのように機能しなければ、夢と現実の境は危ういものになってしまうことは言うまでもない。

 

山本定朝は「葉隠」のなかで、「この世は夢の如くなり」と言葉を残している。これまでの人生が夢のようだし、過ぎ去ってしまった今日も、また今この瞬間も、夢であり、時間がたつほどに、それが夢であったことの確信は強まっていく。

寝起きゆえに、おぼつかない文章になってしまったが、この不甲斐ない「夢」もこのままの形に残そう。

 

2023.11.18

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