死を越えてゆく道[514/1000]

ついに、トーマスマン「魔の山」を読破した。分からないところは、何度も分かるまで読み返し、2週間もかかってしまった。

一冊の文学をこんなに時間をかけて読んだことは初めてで、私自身、未来、隠遁生活を反省したときに、真っ先に思い出す本は「魔の山」になるだろうと思う。

 

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分かるまで読んだと言っても、それは頭の話である。混沌のなかに蓄積される感覚はあれど、血肉と化すにはまだまだ時間が必要だ。

前日わからなかった箇所を翌日読み返すと、不思議とわかるようになっているという体験をした。これは、かつてショパンのノクターンをピアノで練習していたときに、前日どうがんばっても弾けなかったパートが翌朝、弾けるようになっている不思議な体験と類似するものだった。

 

脳は同じことを繰り返すと、強化されていく。それは、今日明日という、短期間の時間単位にも実感値をともなって言えることだ。

そうした強化は、睡眠中に行われる。この二週間、夢の中でなにか重要なことを悟って目をさますことが少なくなかった。また、誠に不思議な体験であったが、睡眠中、自分の頭の中からは到底生れそうもない、難解な文章が紡ぎ出されることもあった。翌朝、そうしたすべてはケロッと忘れているが、脳内では確かにシナプスが結合し、難解な文章を前にしたときの耐性が明らかに強化されていた。

 

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先日も、少し言語化を試みたが、現時点で、いちばん感動していることは、「人間愛」の原理を知ったことである。私は、この20代の半ばから、とりわけ教員をやめて放浪していた期間を思うと、苦悩の底には愛を求めながらも、愛と相反する死に親しみを見出せずにはいられず、それによってわたしには常に悪意がつきまとい、人間を嫌い、世を嫌わざるをえなかった。

 

過去のブログにも残っているが、伊豆半島を原付で一周したときは、それを「懺悔の旅」と名付け、自我第一主義によって生じた罪の意識を反省したものだった。こうした贖罪行動は、人間愛に相反する、死に親しんだ結果生まれたもので、豪雨の下り坂で転倒した時、神罰が下ったようで、少しは旅の目的が果たせたような気がしたのだ。

血を流しているところを、通報され、救急車とパトカーが来たときは、民主主義的な人間愛に安心感をおぼえたことも、まさに対比的であった。

 

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主人公、ハンス・カストルプの哲学のひとつに、こんなものがある。人間には二つの道がある。一つは、生を生きる真面目な道であり、もう一つは、死を越えていく天才の道である。わたしは芸術の才の欠けた凡人であるが、死を越えていく道というのものは、少し分かる気がする。これは、生を否定し、死に親しまざるを得なかった人間が、それを乗り越え、再び人間愛に生きることを意味するのではないか。

私はここに希望を見つける。死に親しんだまま、停滞してはならぬ。そのまま死んではならぬ。そうした死を乗り越え、人間愛へ向かってゆけ。そうした、厭世的な人間の絶望に光を当てるものを、魔の山、全体を通して感じ取ったのである。

 

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一筋縄には当然ゆくまい。この数日間でも、人間愛に化けた悪魔が、自堕落に誘惑をしてくる。ニーチェが、神は人間への同情で死んだというように、人間もまた人間に同情すれば、愛の面をした悪魔によって、放縦、放埓へと一直線に堕ちていく。

結局、愛の原理に従いながらも、魂の価値を信ずる生き方は揺らぐものではないし、それが死によってではなく、生と死の両方によってなされるべきなんだと思う。

 

【書物の海 #44】魔の山, トーマス・マン

この魅惑的な魔法の歌のために死ぬのはまったく意義深いことなのだ。しかし、この歌のために死ぬひとは、実はこの歌のために死ぬのではなくて、愛と未来との新しい言葉を心に秘めながら、すでに新しい世界のために死ぬのであって、そのひとはそのゆえにこそ英雄ともいうべきひとなのである。

 

2023.11.16

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