魂に触れるためには一度「生」を否定する必要があった[511/1000]

人間に対する善意が、いつも人間愛から生まれるならば、この人間愛の原理に従いながら、人間を否定し、人間の超越に向かわなければならないのではないか。さもなくば、生きることの動力源は暗黒で、冷たいものになりはしまいか。

 

三島由紀夫から受ける印象は、厳しさの言動の奥底に温かいものが流れている。人間愛に満ちながら、人間への冷酷なまでの厳しさを示した歴史上人物の品格にはらまれた矛盾に、少し触れられた気がする。

軽蔑や憎しみは、エネルギーに還元されやすい。しかし、愛の温もりを底からくみ上げながら、エネルギーに還元できないものか。救済をのぞむ魂からしてみれば、そんな肉体的な原理など、好きにしてくれという感じかもしれないが、死と愛の対立のなかで、愛をもって克己することこそ、人類が挑戦してきた生き方ではなかろうか。

残酷だけれど温かい。永遠に生きながら、現世的である。そうした矛盾はここから生まれていたのではないか。

 

***

 

死の問題を考えはじめて以降、私は人間愛というものが分からなくなっていた。しかし、魂の問題に触れるためには、一度「生」を否定する必要があった。現世を嫌い、肉体を軽蔑し、厭世的になれば、当然、人間愛からは遠ざかる。

ツァラトゥストラがあの悲壮な青年にかけた言葉「愛と希望を投げ出すな」の言葉の意味が、今、よくよくわかるのだ。これは、もう一度、愛を取り戻せということである。死に与したまま、幽霊のまま、生きるなということである。

 

久しぶりに生きられそうな気がした。無気力の原理でも、虚無の原理でもなく、肉体を愛せそうな気がした。この感覚は、ほんとうに懐かしい。ああ、生きようと思えることは、なんと仕合せなことだろうか。悪意はなく、善意をもって生きられることは、なんと幸福だろう。

 

トーマスマンの「魔の山」、この本は座右書として何度も読み返そう。まずは一週目を突破しなければ。

 

【書物の海 #41】魔の山, トーマス・マン

己が夢見たのは、人間の状態と人間の優雅にも聡明で慇懃な共同体、その背後の神殿では残忍な血のうだけが演じられる共同体の状態だった。彼ら、太陽の子らが互いに礼儀と愛嬌を示し合うのは、ほかならぬこの残忍さをひそかにおもんぱかってであろうか。

 

2023.11.13

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です