日本人の羞恥は美徳だと、なぜ気づかなかった?[506/1000]

「神が死んだ」とは、すなわち愛国心が死んだということではないか。もはや今日、天皇に恋慕の情を抱くことは、神を信じることと同じくらい困難であるように思う。

 

武士道と信仰の血が残っているのは、戦前より生きる90歳のご老人くらいではないか。青年の迷いは命を捧ぐる対象を失った、浮遊した生命の”自由なる不自由”であり、自分の好きなことに身を捧ぐるとは、エゴイズムの純化にすぎない。自己の高尚な部分は、この純化の胡散臭さを見逃さず、青春の情熱は青年を何度も、迷いの谷底に突き落とす。

その中でも、伝統に服従し、家業と血を継ぐ者たちは、仕合せに生きられているように見える。

 

歪んだ歴史観を正せば、ある程度までは国に誇りを持つことはできるようになる。日本人としての民族的誇りも芽生える。しかし、国のために命をなげうつほどの強さにまで信仰心は達するだろうか。「神は死んだ」という言葉が、ここで痛切に響く。武士道精神の消失は、信仰者の問題に思われるが、もう半分は時代によって信仰元が葬り去られてしまったことにあるように思われる。

多くの人間が、人類の魂を覆っていた暗黒の影を取り除き、福祉のために戦うことが進歩であると妄信している。暗黒の影と迷信は魂から取り除かれたものかもしれないが、今や地上の砂煙に覆われて、土足で踏みにじられるまでになった。これは進歩?精神性は退廃である。

 

時代が何のために生きるのかの問いに沈黙するとき、さてどうしたらいいのだろう?

トーマス・マンの「魔の山」のハンス・カストルプという主人公は、その答えをショーシャ婦人への恋の中に見つけたように、(またそれは、至極、日本人らしいやり方に思える)恋する対象の中に光る夢こそが、なにか手がかりを与えてくれるかもしれない。

 

「神は死んだ」というニーチェの言葉を人類の宿命として、自分の宿命として、どれだけ受け入れることができるかは、われわれが試されていることの一つだと思う。亡霊に対する未練があるかぎり、現実に生み出されるはずの信仰はすべての力を発揮できないからだ。神が死んだということを、いや、神を殺してしまったことをちゃんと受け止められるのか?

 

恋と対立関係にあるのは、感情第一主義だと私は認識する。「好き」という感情を動物レベルのものから、より崇高なものへと高めていくことが「人間」の任務であり、そのために「好き」をあえて突き放す厳しさもいる。換言すれば、直進的は良しとしても、直情的は控えたいということだ。

感情を表に出すことが苦手な日本人は、欧米との比較で、この点を嘲笑されるが、待て、それは美徳であるとなぜ気づかなかった?この人間らしい羞恥心こそが、あの誠実で力強い、武士道精神をつくりあげたというのに。

毒されすぎだ。時代に。無知に。もっと誇りを持て。惨めなコンプレックスではなく、誇りを。

 

【書物の海 #34】魔の山, トーマス・マン

ぼくの考えではね、ぼくたちはいろいろの考え方、もっと正確には感じ方だが、これをはっきり区別しておく必要があると思う。つまり敬虔な感じ方と自由な感じ方とをね。そのどちらにも長所があるわけだが、ぼくが自由な感じ方、つまりセテムブリーニ式の感じ方に反対するのは、それが人間の尊厳性をひとりで代表しているように考えているからで、これはいきすぎというものではあるまいか。もうひとつの感じ方も、なるほど形式は異なっているが、それはそれなりに人間の尊厳性を大いに含有していて、作法、身嗜み、上品な礼儀などについていろいろと問題を提供しているように思う。そういう点では、それは『自由』な感じ方以上のものだともいえる。

 

2023.11.8

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です