「自由」の国で堕落した。だが、当時はこれが「進歩」だと確信していた。
声高に「権利」を要求した。あの民主主義者たちのように高邁に戦った。
己を支配する「皇帝」の心臓に剣を突き立てて、血涙流して歓喜した。
親も恩師も、内心静かに失望しただろう。だが、時代が「羞恥」にとどめを刺したのだ。
もはや「服従」を歓迎する市民がどこにいる。
主を失い、愚劣になる一方だった。膨張するエゴイズムの支配。
社会も同じように愚劣に思えた。正義の面構えをした自己愛。教師の堕落。親の堕落。
科学、自由、平等、進歩、世界は発展し、便利で快適になっていく。
美食も娯楽も無尽蔵だ。ああ、しかし、どうしてこんなにも空しいのだろう。
私はまっとうに生きられるほど、賢い存在ではなかった。
私は「私」の愚劣さに堪えられなくなった。
人間を克服しない人間に人間を導くことなどできるものか。
そうして、あの「不自由」を求めて、もう一度強者の復活を夢見た。
悲劇を繰り返さぬよう、「肉体」を尊重することだ、と「知性」は助言する。
神罰を下すかのごとく、病的に痛めつけるのではなく、愛を持って統治できないだろうか。
奴隷になるでもなく、馴合うでも、迎合するでもなく、時代にあった反時代的なやり方で
あの誇り高き戦士が輝かしい一つの光となって突き進んでいくように。
それが本当の愛といえるだろうか。
【書物の海 #35】魔の山, トーマス・マン
肉体の解放と美、感覚の自由、幸福、快楽といったことが問題ならば、肉体は尊敬され、援護されなければなりません。しかし肉体が鈍感と無気力の原理として、光へ向かう運動を阻止する場合には、肉体は軽蔑に値すべきものです。
肉体が病気と死の原理をも代表し、そのために肉体に特有の精神が背理の精神、すなわち腐敗、淫楽、破廉恥の精神であれば、肉体は軽蔑されるべきです。
2023.11.7
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