結婚式を控えた女性は、美しくなるという。一つ仮説を立ててみる。人間の血を浄化させるのは、生命の宇宙に迸るエネルギーではないかと。
こうした宇宙的な力の、人間を若返えらせる力というものは、地上的なあらゆる健康的俗物習慣を、ずっと凌駕しているように思える。野性、これもそうした、宇宙エネルギーの一種だ。とりわけ、男にとっての宇宙エネルギーである気がする。
気が緩まると病が生ずることがある。これも人体の不思議だ。肉体は限界値を越えても、「気」というものが肉体を踏ん張らせる。平時において、気は常に「病的状態」の人間を制御しているのではなかろうか。何ひとつ病気を抱えていない人間がいるというよりも、気によって制御され、発症をまぬがれていると考えることはできまいか。
宇宙エネルギー、気、こうした力は、私が普段から言葉にする「恋」のエネルギーである。宇宙から降り注ぎ、宇宙の彼方へ向かおうとする力だ。ゆえに、恋も情熱も忘れない老人は、情熱を失った若者よりも若い。霊的な力が肉体を牽引している。
「ガンは見つけてはいけない病気である」などと、興味深いことをいう人間もあるようだ。いわゆる、過剰診断というものらしい。ガン細胞は健康な人体にも存在する。治るはずのものも、薬物投与がはじまれば、薬物によって病気が誇張され、肉体が朽ちていくことも考えられる。
こうした症状発症の有無を分けるもの、先と同じく、私には霊的な力が肉体を踏ん張らせているように見える。
私自身、心にも体にも病を抱えてきた人間だ。断食をはじめ、食事について特に内容と体の調子を照らしあわせて、実験してきた。そして、現時点での私の結論としては、恋のエネルギーの肉体に及ぼす力に比べれば、地上の俗物習慣などは、取るに足らない存在に思えるということだ。いくら、食うものを良くして、毎日身体を動かしても、恋と情熱が朽ちていたら鬱状態になる。
つまり、健康とは第二義である。恋や情熱に付随するものだ。ゆえに、健康のため(肉体的に)に生きれば、いつまで経っても本当の健康を手にすることはできないといえないだろうか。食うものが悪くとも、健康のことなど忘れて、宇宙の恋と情熱のもとに生きる人間のほうがずっと若々しく、結果的に健康になるのだ。若く、強い。こうした状態を「健康」と言っているに過ぎないのだ。
【書物の海 #34】魔の山, トーマス・マン
医師が患者と同じ病気仲間だということは歓迎すべきことで、苦しむ者だけが苦しむ者を指導できるのだという、一応もっともらしい意見がある。しかしある力の奴隷となっている者が、はたしてその力を精神的に支配できるであろうか。自分自身が病気の支配を受けていて、しかも他人を病気から解放できるだろうか。
まさに、病気と人間の霊的な力の関係を疑問視しているように思える。
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