知っているか。森林が開拓される前の日本は、雑木林がいたるところにあって、年間200種類ともいわれる山菜やキノコが採れたらしい。植物の種類も多いから、色んな動物が棲みついて、ウサギやイノシシ、キジやヤマバトなんかも手に入れて食べていたとか。
そんな話を聞くと、自然というものへの憧れが一層増していく。山菜と聞けば、ワラビ、こごみ、つくし、くらいはすぐに思い浮かべられるが、200種類も豊富に実る森なんてとても想像できない。かつて里山に住んだ日本の食卓は、どれほど豊かだっただろう。雑木林ではあらゆる植物が生存競争を行いながら、動物はこの営みの中に命を繋いだ。これがすべて、自然のなかで行われる点に、神の慈悲を感じる。
7月から森づくりをはじめる。果物がなって、野菜が取れて、小鳥や動物が遊びにくるような森を目指したい。
戦中・戦後の木材需要で、原生林や雑木林が切り倒されて大量の人工林がつくられた。しかし、木材の輸入が始まると安い外国産材が市場に流入するようになって、採算がとれなくなる。そうして人工林は、間伐もされないまま放置され、今のように鬱蒼とした森が増えたと言われる。
私が暮らそうとする森もその例外ではなく、もともと人工林だったと思う。スギやマツといった針葉樹が中心であって、道が開拓され、光が入り込むようになったことから、部分的に落葉広葉樹が芽吹いた。日の当たる場所ではシダ植物も生え、一部では雑木林のようになりつつある。
何度も森に足を運んでいると、少しずつこの森で行われている生命の営みが感じられるようになってくる。
森ではつねに競争が行われて、皆が光を求めている。広葉樹は少しでも光を獲得しようと、開けた道のほうにアーチを描くように葉をつける。競争に勝利した杉や松は、雄々しく太い幹となるが、敗北した木々は、葉をつけられず細いままだ。森では、小さな木漏れ日すらも貴重で、光が差し込む地面からは、マイヅルソウなどの植物が群生する。いっさいの光が入らない鬱蒼とした大地には、雑草すら生えない。
雑木林を目指すなら、植林されたスギやマツは伐り倒して、光を差し込ませたほうがいいと言う。光が差し込まない森は、土もやせていき、森全体の力が衰える。しかし、伐り倒そうとする木に触れると、とても悲しくなり、何とか残せないかと思う。人工的に植えられた木々は、森全体で見れば不自然であるかもしれないが、木単体で見れば自然である。人間が人工的に植林したとはいえ、自然には変わりないのではないか。
昨日につづき、ここでも問いになるが「自然とは何か」であった。
それでも、私は木を伐ることになると思う。分別の智は不自然であるが、無分別の智は自然であると、福岡正信さんは言った。家を建てるには木が必要になる。人間が生きるために、木を使うようになったのは、無分別であっただろう。それだけではなく、多様な植物が生き、多様な動物が棲みつく森こそ、慈悲深き神が創造した自然の姿だと私は信じる。この世界が愛でできているのなら、かつて200種類も山菜やキノコが豊富に生きる森こそ、愛に相応しいと感じるのだ。
かつての木こりは、斧を立てかけて、木を伐る前と木を伐った後に祈りを捧げた。人間は生きるために伐らねばならなかった。かといって、心の痛みが消えるわけではなく、祟りも怖い。だから祈った。天に祈る。神に祈る。祈りがあるかぎり、道は間違えないと思う。
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