可憐な彼女は、お嬢様のように思われた。馥郁(ふくいく)な美を纏い、美を操り、一挙手一投足のどれもが、一つの作品として完結しているように美しく、目の合った人間には例外なく春が訪れ、どんなにみすぼらしい気持ちになっている人間にも、花が咲くようであった。
男どもは皆、例外なく、彼女に見とれ、なんとか話しかけようと試みるも、「美」の放つ畏怖の前に、憧れを口にすることさえ憚(はばか)られた。美に真正面から対峙するには、それに見合うだけの「格」が必要だったのだ。
道化は格を必要としない。美をものともしないはずの道化じみた連中でさえ、彼女を前にすると調子を狂わすほどで、次第に彼らは道化であることを捨て、道化を口実として彼女に近づくようになった。そんな狡猾な道化たちは、卑怯だと責められるどころか、聴衆から変わらぬ人気を勝ち得たのも、誰もが彼女の「美」を特別なものだと弁えていたからであるし、誰も立ち入ることの許されなかった聖域から彼女の笑顔を引き出したからであった。これは道化だけが「美」に対して見出した道であった。
十年以上経って、奇蹟的に彼女と偶然の再会を果たしたとき、彼女は当時の暗さを語った。万人を魅了した美には、一人の少女の可憐な孤独と、深い孤独の犠牲の上に成り立つものであった。彼女は依然と美しかったが、語りかけることができぬほどの畏怖のベールはすっかり消えていた。その証拠に、再会の縁(えにし)祝福し、抱擁を交わすことさえしたのだ。鼓動する心臓はたしかに生命のものであった。当時の連中がこれを見れば、私は永遠の恨みを買ったであろう。
彼女との親交はそれきりである。もう一度会いたいと思いながらも、次に会うときには相応の「格」が必要であるように思えば、永遠に会うことがかなわないような絶望にも思うのである。遠くから彼女をみていると、再び「美」に身を捧げようとしているように見える。それは、過去の美への復讐であり、同時に過去の美を母にして生まれた子であり、大きな目でみれば、人生のすべてがひとつの「美」のうちに収斂していく過程のようにおもわれる。ああ、これが運命を愛することであろうか、とそんなことを思うのである。
こうして改めて書き起こしてみたのも、つまらない虚栄心が半分と、「美」を考えてみたときに彼女が頭をよぎり、書かざるをえない衝動にかられたからである。美よ。人間よ。
【書物の海 #14】斜陽, 太宰治(新潮文庫)
死ぬ気で飲んでいるんだ。生きているのが、悲しくて仕様が無いんだよ。わびしさだの、淋しさだの、そんなゆとりのあるものでなくて、悲しいんだ。陰気くさい、嘆きの溜息が四方の壁から聞こえている時、自分たちだけの幸福なんてある筈は無いじゃないか。自分の幸福も光栄も、生きているうちには決して無いとわかった時、ひとは、どんな気持ちになるものかね。努力。そんなものは、ただ、飢餓の野獣の餌食になるだけだ。みじめな人が多すぎるよ。キザかね。
「人間失格」「ヴィヨンの妻」「斜陽」「父」「母」「家庭の幸福」 太宰治の作品を立て続けに読んでいるけれど、私は自分でも何を求めて読んでいるのか分かっていない。どうして太宰は何度も心中を試みたか。騎士道や武士道の殉死とは違う。ペテロの殉教とも違う。しかし、純粋な何か。人間を不幸にする絶望。私はそれを掴もうとしているのなら、やめておいた方が身のためである。しかし、死にたいのだという作中の言葉からは、死にたくなっている現代の人間を救う何かがあると感じる。それを探している。
2023.10.17
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