森の契約は交わされた。近日中に、金を支払うことになる。最後の最後まで、葛藤していた。「この森でいいか」という葛藤ではなく、「この人生でいいか」という葛藤だった。金が大きくなるほど、使い道も広がる。世界のあちこちを旅をすることもできる。所帯を持つための金に充てることもできる。東京に住んで都会の街を遍歴することもできる。どこか小さな国に移住することもできる。何か会社を興すことだってできたかもしれない。
金は、形になる前のあらゆる可能性を秘める。これ即ち、夢である。金を持つことの安心は、夢を抱きつづけることと似ている。夢は具体的でなくとも構わない。自分で認識している必要も、実現する必要も、一つである必要もない。ただ漠然と、金をもっているだけで、秘められた可能性のなかに、形にならないあれやこれやの想像に快楽を見出し、なんとなく救われる。金を使うとき、この漠然とした宇宙的な力を、特定の形にして地上に堕落させる。
パウロ・コエーリョ「アルケミスト」に登場する、クリスタル売りの爺さんは、「夢を実現してしまったら、これから生きていく理由がなくなってしまうのではないかと怖いんだ」と言った。金も同じで、変幻自在だった夢の神秘が、崩れ去ることが怖ろしい。ひとつの形に定まってしまうことが怖ろしい。
ああ、金のことを考えるのは嫌だなぁ。できることなら、魂のことだけを考えたい。その高潔に憧れる。金はすべて使い果たした。夢を堕落させた責任はこの肉体で預かる。責任は、ここに魂の価値があると信じることであり、それを地上に展開するための労働をこの肉体に約束することである。まもなく、森に仕えるための労働がはじまる。
金よ、飛べ。どこまでも飛んで行け。
大気圏に突入し、チリチリに燃焼してしまえ。
真っ黒コゲとなって空から舞い降る塵カスが
桜となって、憎々しく春風を魅了し、厭らしく心を愉しませる。
花びらを掴んだ手をみひらけば、
粉々になった黒粉しか見当たらない。
待て。まだ行くな。我はお前をつかまえたい。
我も共に連れて行け。地獄か天かも知らぬまま。
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